ヴィルヘルム・グンデルトの村松時代

                       村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明
 は じ め に
 ヴィルヘルム・グンデルトはドイツのキリスト教伝道者で、チュービンゲン大学とハレ大学で神学と哲学を専攻した。明治39(1906)年26歳の時に、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』を翻訳・出版した縁で、18歳年上の内村をたよって来日し、56歳まで、途中2年間帰国しているものの、日本に約30年間滞在した。そのうち、新潟県村松町(現五泉市のうち)に5年間住んで伝道を行い、ほかにも第一高等学校や熊本の第五高等学校、水戸高等学校でドイツ語の講師を勤めた。そして村松町時代から日本の文化や宗教を研究するようになり、一時帰国してハンブルク大学で学んだ。ふたたび日本にきて、水戸高等学校の講師時代に「日本の能楽における神道」の論文を書き、これをもってハンブルク大学で哲学博士号を取得した。さらに日独文化協会の主事として日本とドイツの文化交流に尽力し、帰国後は日本学の権威となって、ハンブルク大学教授、および総長、副総長を勤めた。名著といわれる『東洋の抒情詩』を出版し、晩年には『碧巌録』を翻訳してその業績を確かなものとした。
 またグンデルトは小説家ヘルマン・ヘッセの従弟で、竹馬の友でもあった。東京大学の新田義之や長岡市出身の東京教育大学教授星野慎一は、「今世紀最大の東洋学者」と高く評価している。
今年はグンデルトが村松にきてから100年目の記念すべき年にあたる。
 グンデルトは明治39年に来日すると、旧制第一高等学校(のちの東京大学教養部)でドイツ語とラテン語を教えた。12月には婚約者ヘレーネ・ボッセルトが来日し、大晦日にあわただしく結婚式をあげた。
 この明治39年11月から同42年4月まで、グンデルトは本郷の第一高等学校で講師をしながら、日本語学校には生徒として出席し、かたわら新宿の柏木で内村にも師事した。内村の自宅書斎で毎日曜に開かれる聖書研究会に出席し、内村の代講を日本語でしたこともあった。
 のちに柏木の内村邸の向かいに家を建てて住み、翌40年には長男ハンスが生まれて幸せな新婚生活を送っていたが、生後1年たらずでハンスを亡うという不幸に見舞われた。

 村松町移住の経緯
 ハンスの死ののち、夫妻は自分たちが伝道のため来日したのに、高給をもらって安逸な生活を送っていたことを深く反省し、初心にかえって伝道者として生きる道を考えた。2人は話し合いのすえ、明治42年3月に第一高等学校を退職した。その時の心境をグンデルトはドイツの友人への手紙で、「その選択は間違っていなかった。我々は御国の到来を待ち望み、日本では既にその期待が確固たる地位を占めている。いつかこの国全体が神の国となるであろう。しかしそれは十字架の贖いによってのみ成されることであり、そのために我々が召し出されるのはこの上ない恩恵である」と述べている。
 グンデルトが伝道の地に村松町を選んだのは、大鹿(現新潟市秋葉区大鹿)の木村孝三郎の尽力による。他にも知友宍戸元平の妻が五泉町郊外の三本木(現五泉市三本木)に住む古田喜一(内村の発行する『聖書之研究』の読者)の長女で、内村の弟子である大鹿の木村孝三郎の長女が古田の妻という関係にあった。
 木村は内村が明治36年に日露戦争に反対し、朝報社をやめて定収がなくなり、母ヤソの精神病院への入院治療費にこまっている時、先祖伝来の田畑を売り、伝道のためと称して翌37年1月に1000円という当時としては大金を寄付して窮状を救った。そのため、内村はのちのちまで木村のことを、「まことに善き信仰の友である」と呼んで、生涯その恩を忘れなかった。多くの弟子が内村のもとを離れて行ったあとも、木村はひたすら彼を信じて終生離れなかった。
 内村はのちに大正10年8月9日の日記で、木村のことを「彼はかつて余の窮乏を救わんとて、そのわずかばかりの産を挙げて余に供給した」と書いている。内村が木村を「まことに善き信仰の友である」と呼んだのは、ただ金をくれたからばかりではなく、木村の人間性にたいする信頼が大きかった。グンデルトもまた内村と同じくこの木村を信じた。
 木村孝三郎は明治21年に内村が新潟市の北越学館へ仮教頭として赴任した際、彼の話を聞いて感銘をうけ、無教会主義の信仰に入った。20歳で家督をついだが、病弱のため精神的になやみ、信仰を求めるようになったという。しかし、生来強い烈しい性格だったといわれている。
 同38年4月に内村はこの大鹿の木村家を訪れている。ところが村民にこのことが知られ、妨害のためふだん木村宅に集まっていた青年たちは内村の講義を聞くことができなかった。しかし同年9月には木村や本望十三蔵らが中心となり、関口友吉や本田作平らも加わって、大鹿教友会が誕生した。教友会はこの年内村が全国の『聖書之研究』読者に呼びかけて14支部が結成されたものであるが、全国にさきがけ一番はじめにできたのがこの大鹿教友会であった。大鹿は熱心な仏教徒の多いところで、そのため教友らはまず自分の家族と軋轢をおこし、関口や本田は家を追われ、北海道で炭鉱夫になったり、荒野の開墾に従事したという。
 宍戸は山形県高畠町の旧家の出身だったが、家を捨ててアメリカに渡り、3年間苦学して医学を勉強し、さらにドイツに行って9年間滞在し、神学校で学んだ。グンデルトは明治35年夏にデンマークのソールーで開催された国際キリスト教学生会議で宍戸と知り合い、宍戸が昭和14年に亡くなるまで交友が続いた。
 明治42年3月29日付のグンデルトを支援する友の会宛の手紙で、グンデルトはすぐにでも田舎に行って、農民たちに福音を伝えようという考えが思い浮かんだと書いている。
 第一高等学校での最後の授業を終えた夜、グンデルトは「ただ話をするため」内村家に立ち寄ると、話は彼の将来のことにおよんだ。グンデルトはできることなら田舎で、しかも孤立無援ではなく、日本人の兄弟と共に直接福音を説きたいと打ち明けた。内村は、「なるほどもし君がそれを欲するのであれば、この先その〝扉〟を探す必要はない。私は君のために十分な、いや十分過ぎるほどの役割を用意している。私は日本中至るところに信仰深き友人がいるが、実際は聖書研究誌の発行のために東京に釘付けにされていて、今の私が彼らに与えられる以上の直接的な力添えの必要性を以前から感じていたところなのだ」と答えた。内村はこの度の仕事で自分の助けとなるならば、神とグンデルトに厚く感謝したいという。グンデルトは「神は新たに幕をお上げになった――まさにこの時とばかりに神はその子らに報いられた」と喜んだ。かくしてグンデルトは忙しい内村の分身として地方に趣くという役割を与えられた。
 このような中、4月30日には次男ヘルマンが生れた。
 内村はそれより計画をたて、これ以後グンデルトは明治42年から43年まで、1年半にわたって鳴浜、花巻、上諏訪、大鹿、静岡の教友会を訪れて伝道を手伝い、独り立ちへの準備とその場所探しを行った。
 千葉県九十九里の鳴浜行きには、内村が途中の中山(現市川市中山)まで付き添った。鳴浜でグンデルトは前年からここに移住していた宍戸元平に毎日従い、友人や知人を訪ねて歩いた。ここで宍戸夫人は学校の先生をしていたが、日曜の朝には20名ほどの子供を集めて日曜学校を開いていた。
 次に明治42年7月8日夜に東京を発って、岩手県花巻市川口町の斎藤宗次郎を訪れ、3日間滞在した。ここでは斎藤が信仰のため花巻中から憎しみを買って、教師の仕事をやめざるを得なくなり、迫害された厳しい現実の話を聞かされた。
 さらに長野県上諏訪で、妻ヘレーネ、次男ヘルマンを連れて諏訪湖の見える山沿いの家に一室を借りて滞在し、毎日温泉に通った。ここでは内村と教派は違うが、内村の本の読者小泉という物静かで正直な教師とたいへん親しくなり、多くの体験をした。
 大鹿行きに際し、明治42年9月10日付で、内村は同地の木村孝三郎に以下のような依頼の手紙を書き送っている(『内村鑑三日記書簡全集 6』)。

 拝啓。先日はつまらなき写真差上候処、厚き御礼に預り、却て恐縮の至りに存じ候。
 扨、隣家在住の独逸人グンデルト氏儀、先日来諸方の教友会を訪問致し、到る処に霊の糧を頒ち、同氏自身も亦大に喜ばれ居候。就ては、今回進んで御地教友会を訪問致度旨申出候に付、若し御地諸者に於て御差支へ無之候はば、来る十七日夜行列車にて出発致し、十九日の日曜日を御地に於て守り度旨申居候。予て御承知の事とは存居候得共、同氏は純粋の無教会信者に有之、西洋人とは申しながら、在来の宣教師とは全く趣を異にし、直接間接に小生の事業を助け呉れ候事は、非常のものに御座候。小生は同氏の御地訪問は、諸君にとり多大の利益を供する事と存候に付、小生を御迎へ下さると思し召し被下、同氏を御歓迎下さる様、偏に願上候。尚ほ又貴兄に於て、御都合に相成候はば、柏崎まで御同道下され、彼地の教友にも御紹介下さる様偏に願上候。
 尚ほ又御都合も有之候事故、其辺御遠慮なく御知らせ被下度候。時日の如きは都合により変更更に差支へ無之候。右申上度 草々。
     九月十一日                           鑑 三
       木村孝三郎様
       大鹿教友会 御中

 この時の大鹿行きのあと、翌43年にグンデルトはふたたび大鹿の木村孝三郎のもとを訪れ、木村を頼って大鹿の近辺に最終的な伝道地を探す旅行に出た。木村は慶応2(1866)年の生まれで、グンデルトより14歳ほど年上であった。再度、内村から木村に依頼の手紙が送られた(出典前に同じ)。

 拝啓。寒気今尚ほ去り申さず候得共、貴地皆様御変りなき事と奉存候。 次に当方一同健全にて、御恩恵の下に欣在罷在候間、御安心被下たく候。小生も今回は久振りにて充分の休養を得、久々にて主の聖顔を拝し、再たび旧(ふる)き信仰に復(かえ)り、惟(ことわ)り自ら歓喜罷在候間、御安心被下たく候。
 扨、今回グンデルト氏伝道地発見のため、復たび貴地に罷出候間、何分宜しく願上候。尤も今回は先回と異なり、貴地教友訪問が其第一の目的に無之、独り直に未信者に接するの途を発見せんための旅行に候間、其御積りにて御援助を願上たく候。
 グンデルト氏に託し、貴兄へ対しハヤシンス艸(そう)三株差上候間、春草々の御慰みとなされたく存候。別に粗菓一箱、御子供衆へ差上候間、是れ亦御落手願上候。
 小生も神の御許しを得て、今年は是非一度貴地を訪問致したく存候。
 御家族様始め諸兄姉へ宜しく御伝へ被下たく候。怱々。
    千九百十年三月四日                       鑑 三
       孝三郎様

 村松伝道時代
 グンデルトは明治43(1910)年6月12日に東京を出発して、大正4(1915)年7月ころまでの丸5年間、村松町の外れにあたる公園通の中央(現石本隆一氏宅)に居住し、無教会のキリスト教を伝道した。
 






















 村松移住の経緯につき、昭和46年になって、ヘレーネ夫人から星野慎一にあてた手紙(「続グンデルト先生と村松町」)に、「主人はかねて仏教の盛んな地方へ行って見たいという希望を持っていました。それが越後だったのです。では、どうして村松へ? それには二つの理由がありました。一つは軍隊があったので食パンがあったからです。もう一つの理由は、村松が大名の町だったので、市民が教養のある人たちだったからです」と書かれている。
 大正5年発行の『帝国宝鑑』(盛文社)に掲載の村松町商工人を見ると、軍隊の町らしく旅館、料理屋、洋服商が多いが、ほかにもカステーラ本舗、キリンビール販売店、欧米各国時計付属品一式並びに修理店、靴製造販売店、牛豚肉卸小売店、西洋料理店、薬種売薬洋酒缶詰和洋小間物紙類販売店、牛乳搾取販売店などがあって、他の町とは少し趣を異にしたハイカラな町であった。
 グンデルトの村松における伝道の基本的な考えは、すでに明治40年1月発行の友の会あて手紙の中に見ることができる。それによれば、日本はまったく独自の性格を持っており、他のいかなる国々とも違う最も進んだ任地であると見なしている。したがって、ここではアメリカの宣教師のように押しつけがましい伝道ではなく、騒々しさのない静かな取り組みでなければならず、日本人の霊的生活と最も内面的に深いところで結ばれなければならない。あと何年か東京にいて、たとえば越後の田舎へ行ってみたいと述べている。伝道する者は自分自身に人間的価値があり、その内なる光を放つときに遠くまで照らすことができる。そして日本へこようと思っている後輩の伝道者は、日本でしっかりと成長したいと望むならば、自身を新たに生れた日本人の子供と見なす必要があるといっている。
 内村もグンデルトに対し、従来の外国人宣教師には、一方的に福音を伝えようという不当な優越感が見られるが、もっと日本人の心を知る必要があると助言していた。
 内村は雄弁であったが、それにひきかえ、内省的なグンデルトは一人一人の個人にたいし、静かに自身の内面の深いところから発する福音の言葉を伝えたいと望んだ。
 グンデルトは、「自由と民主主義、この二つは日本人にとって完全に未知のものである。しかし民主主義の精神を養うことが、あたかも伝道のための最も重要な準備的活動の一つ」であると考えた。つまり人格の自由と神のもとでの人間の平等、民主主義の精神を知り、学びとって欲しいと願ったわけである。
 越後がグンデルトの伝道の地に選ばれたについては、ここが内村とは縁の深い所であることも無視できない。アメリカから帰国した内村は、明治21年9月に新潟市のミッションスクール北越学館に仮教頭として赴任し、12月に辞職するわずか3か月のあいだに、任地で大きな影響を与えた。木村孝三郎のほかにも、新潟市の大橋正吉もこの時内村の感化を受け、明治27年には二七教会と称する無教会集会をはじめたが、これは日本で最も古い無教会集会だろうといわれている。北越学館時代に内村の給仕をしていた当時16歳の山岸壬五少年は、内村の上京に従い、彼に仕えて聖書研究会になくてはならない存在となった。
 ほかにも越後では柏崎の医師宮川文平も熱心な信者で、内村が明治38年に全国で14の教友会を作った時に柏崎教友会を結成した。大鹿教友会、広川徳次郎の三条教友会と並んで、14のうち三つの支部が新潟県内に誕生したわけである。内村自身、明治39年8月11日の木村あての手紙で、「教友会は越後から生れ、越後に於て確立せしことは認めて宜しきことと存候」と書いている。明治42年9月10日の内村の手紙に出てくる柏崎行きの話は、この柏崎教友会のことで、内村の依頼通りにことが運んでいれば、グンデルトは大鹿の帰りに、木村に伴われて柏崎を訪問したことになる。
 この教友会は教会ではないので、キリスト教的信念を持つ者はだれでも入会できた。『聖書之研究』読者の信仰的、ならびに友誼的団体であると称したが、しだいに宗教組織となっていった。
 それでは、グンデルトが村松で作った集まりがどのような性格のものであったかというと、やはり内村の教友会の一つだった、と考えられる。のちに出てくる服部元治あてグンデルトの手紙に、村松時代のことを引いて、「あの当時の教友御一人が」と書いていることから推測される。つまり正式な名称は村松教友会だったであろう。グンデルト自身にも信仰上の考えがあったとしても、伝道の内容は、基本的に内村の無教会キリスト教の普及であったようである。
 グンデルト一家の住んだ家は、熊野堂にある真言宗禅定院の僧の持ち家で、茶室として使っていたものを、村松在住の画家田中穂年の紹介で月5円の家賃で借り受けた。100坪くらいの正方形の敷地に40坪ほどの家が建っていた。ここには蚕を飼うための中二階がついていた。
 田中一家は熱心な信者で、グンデルト一家と親しくなり、彼の伝道を助けた。ヘレーネ夫人の回想によると、田中は個性豊かな人で、妻は古田喜一の姪といい、夫妻はそろって有能な人物だったという。
 グンデルトは30歳から35歳までの5年間を村松町で過ごした。庶民と同じく粗食を摂り、井戸水で顔を洗い、夏は浴衣姿であった。子供は3人あり、村松時代の大正2年に次男ヘルマンは6歳、3男エバハルトは4歳、村松で生れた長女ハナは2歳くらいで、子供たちも麦の方が多いご飯を食べ、畳の上で育てられた。ヘルマンは素足に下駄をはき、番傘をさして日本の子供とすこしも変わらなかったという。「村人」にはグンデルトさんといって親しまれた。
 
























 ここで一家は山羊を1頭、兎2匹、鶏数羽を飼っていた。餌となる草を刈るため、グンデルトは農民姿で早出川に出かけることもあった。ヘレーネ夫人はそれを晩年の手紙で、「楽しい想い出です」と回想している。
 内村はすでに『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫)の中で、外国に行く宣教師が、当然のように自分の国でしていたのと同じ生活をしようとするのは、現地の人たちから見れば贅沢な宮殿暮らしであって、信頼をうることはできない。そのため、宣教師はパイやその他の故郷の美味を断ち、莚の上に座ることを習わなければならないと主張した。
 グンデルトの現地の人たちに溶けこんだ伝道のスタイルは、内村の影響も大きかった、と考えられる。したがってヘレーネ夫人が「楽しい想い出です」と回想しているように、グンデルトは村松での貧しい生活を楽しみ、現地の人たちに溶けこんで信頼をえていたと考えられる。
 グンデルトは金曜日になると日曜集会の張り紙をして廻り、夏には浴衣姿で貼って歩いたという。最初は日曜の夜に自宅で集会を行っていたが、やがてそのため近くに借りた聖書舎と名づけた民家で伝道を行った。はじめは5、6人の町の知識層が集まっていたが、やがて毎回15、6名の「農民」たちも集まってきた。また子供たちを集めて日曜学校を開き、話をしたりいっしょに遊んだりした。クリスマスには田中穂年の家でグンデルトがサンタの衣装をつけ、落花生やミカン、森永キャラメルを撒いて、子供たちを喜ばせた。グンデルトはここで日本の文学や庶民の習俗を直接体験して学んだといわれている。
 ここには大鹿から木村孝三郎が集会にきて話をすることもあり、グンデルトが大鹿の集会に出向いて話すこともあった。雨のふる日曜日に、大鹿の農民20名あまりが、16キロ余の道をわらじがけで村松の集会に参加したこともあったという。
 明治43年1月発行の友の会小冊子に、グンデルトは「イエスが彼の弟子を二人ずつ遣わしたように、そして同じくパウロもバルナバを同行させていたように私にも兄弟が、もちろん日本人の兄弟が必要であると考えた」と書いている。グンデルトは自ら木村を兄弟として選んだわけである。
 しかしこれは、「私こそが日本人の兄弟にとって異邦人の助け人でなければならない。(中略)その道を歩んでこそ私も異邦人として日本で何かしら役に立てるであろう」といっているように、グンデルトもまた木村を助けなければという使命感を抱いていた。木村は長いこと熱心な『聖書之研究』の読者であったが、グンデルトのように正式にキリスト教の教義や歴史を学んだわけではない。2人はたがいに足りないところを補いあい、気のあった良きパートナーであったと考えられる。
 明治44年5月27日に3男エバハルトが村松町で生まれ、翌大正元年10月2日に長女ハナが同じく村松町で生れた。
 同年5月3日付の木村あて内村の手紙に、『聖書之研究』5月号の発送(10日が発行日)後に大鹿を訪問したいと都合を問い合わせ、その際、「且又グンデルト氏方も御取込の様子」と書いているのは、エバハルトの出産が間近なことへの配慮だろう。
 グンデルトは明治45年4月から10月(7月30日に大正と改元)までの半年間、理由は明らかでないが一時ドイツに帰省している。留守中、ヘレーネ夫人は5月ころに一度上京し、木村幸三郎から内村あての菓子を預かってきている。
 翌大正2年5月13日に、内村はグンデルトを激励するため、弟子の中田信蔵を伴って村松町を訪れた。この旅行について、『聖書之研究』同年6月号に、中田が「信越教友会訪問旅行紀」を発表している。この日、内村一行は羽生田駅でグンデルト父子の出迎えをうけ、新津駅には木村孝三郎兄弟(弟は允)に出迎えられて乗り換えの五泉駅に到着した。それより一行は一里(実際は約5、5キロ)の道を雨の中腕車(人力車のことか)に乗ってグンデルト家の客となった。まもなく五泉から宍戸元平もやってきて話に花が咲いた。宍戸は大正元年末ころに鳴浜から妻の実家がある五泉町に移り、なにかとグンデルトを助けていた。夜は村松町の聖書舎で、内村が「善を行ふの力」と題する講話を行った。
 この講演は、人間は悪をしりぞけ善を行わなければならないが、それを行う力は後ろ盾となる神の力によるというもので、そう難しい内容ではなかった。しかし注目すべきは、冒頭で、越後人はキリスト教にたいして疑いの目をもって見るので、ここで伝道するのは困難であるというのが伝道界の与論である、といっている。越後には内村の信者が多いにもかかわらず、内村がこのように認識していたことは、グンデルトもまたそのような覚悟をもって村松に赴いたと考えてよい。決して安易な道を選んだわけではなかった。
 翌14日は晴れて、午前中に内村と中田はグンデルトの案内で、すぐ近くにある公園を経て愛宕山に登り、午後には家に戻った。この日は来客が多く、内村は若いころ農商務省の役人として佐渡で鯡(にしん)の卵を放育したことや、新潟の北越学館時代の思い出話をした。夜は質問会を開き、内村がいちいちていねいに説明し、宍戸がこれを助けた。
 15日は朝から来客があり、内村を中心に座談会が開かれて、熱心に話し合いが続けられた。夜にはまた内村の講演があった。
 16日に内村は一日休養をとり、中田は一人で新潟に行って一泊した。
この16日に内村は「新潟県村松にて」と記した英文の絵葉書を米国サラトガの※D・C・ベルに送っている(『内村鑑三日記書簡全集 7』)。

  一九一三年五月十六日
 越後の国村松からご挨拶申上げます。当地は※二十三年前アメリカの宣教師と最後に袂を分かち、今になお癒されぬ痛手を負うた私の「古戦場」なる新潟から、程遠からぬところにあります。当地へ来たのは、町民の間で働いている友人の一ドイツ人宣教師とその夫人を援けるためです。神は当地において多くの善きキリスト信者の友人を与えたまいました。アメリカ宣教師団との関係はついに恢復されませんでしたが、しかしその辛い思い出は、この地方に生れたたくさんのあたたかい友情によって癒されるに至りました。神の奇しき御導きのゆえに、神の讃美せられたまわんことを。
                             アナタの友なる
                                   内村鑑三

 ※D・C・ベル 内村が明治18年6月に、アメリカの全米慈善矯正会年会に出席した際、たまたま話を交わしたミネアポリスの熱心なキリスト教徒で、以後2人は生涯の友人となった。
 ※新潟北越学館事件をさす。内村は明治21年9月に北越学館に仮教頭として赴任したが、経営者や宣教師10余名と教育方針をめぐって激しく対立し、12月には辞職した。
 17日に中田は一足先に大鹿の木村家に行き、夕方内村と迎えに行った木村が戻ってきて合流、大鹿の教友たちは涙をもって迎えた。夜は内村のテサロニケ後書の講義があり、翌18日の午前中も同所において内村のロマ書の講義があった。夕刻内村と中田は新津駅から帰京の途についたが、グンデルトは羽生田まで同乗して見送った。
 「信越教友訪問旅行紀」の冒頭に、中田は「主に在る我等同志の一人なる青年紳士グンデルト氏は、真の基督を吾国人に紹介せんがために先年本国独逸より来朝され、柏木に居を構えて日本の事情と言語と文学とを研究し、粗(ほ)ぼ其大体に通ずるを待って北越の僻地に出で、驚く可き忍耐を以って多くの不便と困難に堪え、何人の庇護にも由らず独力唯神の力に縋って熱心伝道に従事しつつある」とグンデルトを紹介している。
 

























 大正4年6月に、グンデルトを中心に村松夏季学校が開催された。これに参加した新潟医専の矢高行路が、手記を『新潟教会月報 第六号』に載せているそうだが、『真珠母』所収の星野慎一「グンデルト先生と村松町」から孫引きする。

 このたび試験休みを利用して村松のグンデルト先生を中心として、当町信者の尽力により、小なる夏季学校開かれ、我等医専基督教青年会員十名出席し、実に愉快なる集りなりければ、左にその大略を記さん。
 六月五日。早朝新潟を出で、十時村松町に着き開校式を行う。
 六月六日。午前は聖書舎の集会と聖書研究、及び宍戸先生の講話とあり。出席十七名。午後二時より石川氏宅にて懇談会を開く。石川氏佐藤氏「医者」につき話さる。未信者の老人説をなして面白かりし。夜グンデルト先生よりアシシのフランシスの伝を聞く。ああその気品の高き聖者、実に慕はし。
 六月七日。早朝より狩場に遠足す。途中雷雨激しく、濡れ鼠の如くなりて温泉宿に入る。奥さん方も子供衆も皆こられて大さわぎに衣服を乾かさんとするその滑稽なる姿。昼食後欧洲戦乱につき話す。それより鍾乳洞を探検せしが、一種奇妙な冷たき心地す。帰途雨はれて、新鮮の気野山に満つ。夜はグンデルト先生の宅にて幻燈会ありし。
 六月八日。朝霊交会と聖書研究会とあり。それより一同十六名昼飯を共にし、思ひ思ひのテーブルスピーチをなす。さてグンデルト先生宅にて記念撮影の後、閉校式を行う。皆々感謝にあふれたり。帰る時、皆お見送り下され、実に嬉しく、汽車の窓より村松を見送りしこと幾度ぞ。グンデルト先生吾等青年に注意して曰く「基督教教理を余り早く知らんとする勿れ、唯ナザレのイエスを得んことを禱れ」と。
ああ実に今度の如く恵まれたる集会はなかりき。
宿は聖書舎にて、四日間の費用は七十余銭なりし(矢高生)。

 また矢高は「冬の桑園」(「グンデルト先生と村松町」から引用)の中で、次のようなエピソードを載せている。

 或る夏、聖書舎のグループが一緒に旅行したことがあった。田舎の小さな温泉宿に泊まった。それは冷泉をわかしたもので、木造の湯舟も古く、白濁りの汚い、日本人の我われでも一寸入るのを躊躇するくらいのものだったが、先生は平気な顔で皆と一緒に入っておられた。
 湯から上がって、先生は謡曲のけいこをはじめた。師匠は歯医者の信者であったが、旅先で本をもっていないので、時どき文句につかえる。たしか「紅葉狩」だったと思うが、師匠がつかえると、弟子のグンデルト先生がずんずん先を云って行く有様であった。
 もっとも、後に「謡曲に現われた日本の宗教精神」とかいう論文で、ドイツの文学博士をとられたくらいで、素晴しく勉強しておられたのであった。

 グンデルトと旅行した歯医者の信者は、のちに出てくる村松町上浦町(現村松乙633)住の佐藤久吾のことで、この人の教えたことが、のちにグンデルトの大きな業績へと発展していくことになる。
 また、矢高はグンデルトの宍戸と内村観を『冬の桑園』に書きとめている。「かつてウィルヘルム・グンデルト先生がこんなことをいわれた。日本のクリスチャンに二つの型がある。一つは武士的クリスチャンで、もう一つは仏教的クリスチャンである。そして、武士的クリスチャンの代表者は内村鑑三氏で、仏教的クリスチャンの代表者は宍戸元平氏である。なるほどうまいことを云ったものである。あの秋霜烈日のような内村鑑三先生に対して、わが宍戸元平先生はまるで良寛でもみるような田舎親爺であった」と書いている。
 ほかにもヘレーネ夫人が星野にあてた手紙(昭和41年2月2日)に、当時のグンデルトの心境を、「日本人にたいする信仰活動は日本人を通しておこなわれた場合に、もっとも有効におこなわれるということを、主人もはっきりさとるようになりました」と回想している。
 しかしグンデルトは村松で浄土真宗の信徒たちと出会い、対話を続けているうちに、「こういう深い宗教がある限り、もうキリスト教を布教する必要はない」と実感したという。それを契機に日本文化や日本の宗教の研究にとりかかったと伝えられている(石井誠士「グンデルト先生との一期一会」)。のちに教え子の高橋三郎へあてた手紙の中でも、「当初、この異国において『与えるもの』であろうと考えていた若者らしい思いは、ほとんど一〇年と続きませんでした。私たちは次第に『受ける者』になっていき、かくて日本は私たちにとって、第二の故郷となったのです」と、これを裏づけている。
 浄土真宗の信徒たちは具体的に誰をさすのか不明だが、木村のいる大鹿にも真宗大谷派の深行寺があった。おそらく木村グループも、かつてはここ深行寺の熱心な檀徒だったのであろう。

 第一次世界大戦下での村松伝道
 大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が始まり、ドイツは日本と敵対することになった。グンデルトは深刻に悩んで8月20日に上京すると、柏木の内村を訪ね、涙ながらに苦しい胸のうちを訴えた。内村は同情して、国同士が敵となっても、我々はクリスチャンとしては兄弟であるし、友情が絶えることはないだろうといい、「我等の国人にして今猶独逸に居る者がある。我等は彼等が独逸人に優遇せられんと欲するが如く君を優遇しなければならない」といって慰めた。グンデルトは心から感謝し、戦争中はとくに熱心にキリストの平和の福音を伝えたいと語った。 
 グンデルトは二日ほど柏木に泊まっていく予定で、石原兵永の『身近に接した内村鑑三(上)』には、翌21日の夜8時に内村家の茶の間で家庭祈祷会が開かれ、内村夫妻と長男祐之、グンデルト、石原(当時は鈴木姓)、柴田豊造、荒尾某、女中の楽が集まったとある。
 グンデルトは『聖書之研究』(第170号)の大正3年9月号に、そのころの心境を「戦争と私と」と題して発表している。
 「今は非常な時であります、世界の大戦争が来ました」と書きはじめ、「民と民とが相憎み軍隊と軍隊とが相殺すと云ふ有様を見て、云ふに云はれない苦痛の焔が私共の心を燃して居る」と歎いている。そしてこの戦争の原因は、自分の心の中にもある自分は良くて相手が悪いとする毒にあり、この戦争をとおして神は「御前も結局こんな人間である」ということを教えてくれた。その毒を取りのぞく力を持つのがキリストの愛で、自分はもう自分の主でなく、すべての権利はキリストにある。「人キリストに在る時は新たに造られたるものなり」というように、「此の新しい者に限つて戦争の此の世に居つても戦争と関係を切ることが出来」るとしている。そのため救いの日は近くなっており、「是からは主に会ふ準備をする時であります」とまとめている。
 8月23日に日本がドイツと開戦するにおよんで、グンデルトは敵国人と見られるようになった。やがてドイツのスパイ(独探)でないかという噂が広まり、憲兵がやってきて取り調べ、生活費の出どころを聞いたりした。そのため集会に出席する者もしだいに減って、ついには誰もこなくなったという。
 新発田市に住む長崎国夫の回顧談では、大正3年11月7日に、ドイツの東洋艦隊基地がある中国の青島が陥落すると、「当時物知りらしいのがいて、グンデルトのうちは憲兵と警察が取り囲っていた」とあるという。また、大正4年の夏に、グンデルトの第一高等学校での教え子山田幸三郎が村松を訪れた際、会員が15、6名集まっていて、「先生の家の南一丁程の丘上には兵士が二、三名散歩のように見せかけて実は先生の家の中を偵察する光景も目撃した」と聞いている。
 また、闇にまぎれて家の縁の下に忍びこみ、家の中の動静をさぐっていた兵士もあったという。牛腸丙四郎の手紙では「床下」に入れる構造ではなかったとあるが、村松時代のグンデルト家の写真を見ると、少なくとも縁側の下には入れるようになっている。
 一家が村松町を去ってから、長崎の証言によると、「するとまた、やはりスパイだった、日本のしかも軍隊の所在地に伝道に来たこと自身目的があったのだ、ドイツに巧みに秘密を送っていたのだそうだ、といわれたものでした」という。
 グンデルトの家は町外れの公園通にあり、しかも村松公園の向こうは村松三十連隊が駐屯していた。また家の南にある愛宕山続きの小山に登れば駐屯地が見えるという配置で、疑われるにはあまりに偶然過ぎた。
 山田幸三郎は村松に10日間滞在したが、その間もグンデルトは仏典の研究に没頭していたという。食事は米と麦が半分ずつの粗食で、まだ2歳の娘ハナが黙って食べているのを見て、可愛想に感じたという。そのような中で、山田は赤の他人の自分に毎月10円を送ってくれたのを知り、深い恩義と敬服の念をいだいた(「グンデルト先生を憶う」)。
 山田は「先生の居心地は大分不愉快なようだった」と書いているが、後年ヘレーネ夫人が星野にあてた手紙には、「一九一四年の戦争中も、苦しい目にあったなどということは全くございませんでした」と書かれていて、日本にたいする大人の配慮をみせている。
 つまり、グンデルトが村松を去って熊本へ行ったのは、必ずしも村松で冷遇されたからというわけでなく、経済的な理由が大きかった。
 この村松時代に、当時18歳のおいつ(のち木村イツ)というお手伝いがいた。三本木の古田喜一の紹介で、住み込みで東京時代の明治43年に4か月間次男ヘルマンの子守をし、一家の村松移住に従ってきた。しかし結婚のため、同年の12月には退職した。
 そのあと別所村のおはま(のち番場はま)がお手伝となり、長い間忠実に仕えた。グンデルトはヘレーネ夫人と2人で別所のおはまの母の実家に2度ほど行って、村民を集めて伝道をしたこともあったという。
 グンデルトの村松町での布教はこのように挫折した。皮肉にも村松にキリスト教が根付いたのはグンデルトが去ってからである。そのころ村松で歯科を開業していた佐藤久吾は、東京時代にキリスト教に入信していた。それを知った新潟在住のカナダ人宣教師C・H・ショートが佐藤を訪ね、大正5年3月に大手通りの借家で出張伝道会を開き、30余名の参加者を得た。これが大正11年には聖シオン教会となり、最盛期には信者100名を越えたという。しかしこれも戦時態勢が進むにつれ、昭和16年に閉鎖された。
 のちに村松町曙町に住むおはまの娘番場信子が星野慎一に送った手紙によると、「母が良く小さい時サンビカを口ずさんできかせてくれました。私も小さい時に日曜学校教会へ通い、お話を聞いてくると母が聖書を出して聞かせてくれたものです」と書かれており、グンデルト縁の人がキリスト教を離れずに、ショートの教会に通っていたことを物語っている。
 また、グンデルトの集会に参加して話を聞いていた村松工業学校生の服部元治少年(出雲崎の出身)は、のちに東京の芝浦製作所(東芝の前身)に勤めたが、職場に内村や弟子の浅野猶三郎が伝道にきたのが縁で、内村の集会に出席を許されるようになった。服部は太平洋戦争後にグンデルトの消息がわかり、昭和35年にドイツへ村松町の写真8枚と、名物の菓子を贈って80歳の師を喜ばせた。
 さっそく以下のような感謝の礼状が届いた。

 此の間は計らずも村松名物御菓子の郵便小包が着荷しましたので、私共家中ほんとにビックリして大喜びで御座いました。なつかしい村松。二人の子供の生れた処から未だかつて本国に帰ってから何の郵便物もなかったのに、今度はMURAMATUの消印まで押してある大きな小包が見えただけでも、心が跳って居ました。解き明けて見たら実にめずらしい御菓子の種類が色々出て来て撮(つま)みながら村松の思ひ出に耽ってあらゆる話に花が咲きました。当地の子や孫達にもフライブルクの長男長女の家庭にも共等に分配したので、皆が味わせて頂いて感謝して居ました。ここで親子供孫達に代はってほんとにありがたく、厚く御礼申上げます。八十歳の時此んな御恵みに合わせて頂くのは、只だ只だ感謝の外ありません……(「続グンデルト先生と村松町 5」)。

 グンデルトは4月12日に満80歳になったばかりで、ヘレーネ夫人や子供、孫たちが集まってにぎやかに誕生祝いをやり、その席で村松の話も盛んにしたという。それからいくらもしないうちに服部から小包が届いたので、喜びもひとしおであった。
 この村松町時代について、梁取耕平が昭和58年になって『郷土村松』第31号に「村松のグンデルト先生」という短い報告を発表している。梁取によると、グンデルト一家は梁取の父勇蔵がやっていた呉服店大黒屋にもきたことがあり、「通りの奥の丸椅子にかけて買い物をしたり、話をしておられたことや、坊やがちょこちょこしていた様子が、不思議にはっきり目に浮かぶ。その頃は当然外国人は珍しく、店の前に人だかりがした」と書いている。
 梁取はまた、叔父梁取久五郎と叔母おくらがグンデルトの家をしばしば訪れ、グンデルトが夫人のことを「ヘレネッ」と呼ぶのを真似て(叔父か叔母が)皆を笑わせたというエピソードを載せている。梁取は夫人の正式な名前を知らないといっているので、この話は信憑性がある。
 しかし村松町の人たちの反応は、必ずしもこのような友好的なものばかりではなかった。長崎国夫の証言では、「異人さんはそのヤギの乳を飲んで、血のしたたる肉をかぶりつくんだと恐ろしげに古老が語るなど、異端視したり、ヤソ教だなどと批判したものでした」(「続グンデルト先生と村松町 2」)と記録されている。
 矢沢英一は「内村鑑三とグンデルト」の中で、村松時代の意義を根拠は明確に示さないものの、「村松での伝道が人知れぬ所で麗しい実を結んでいたばかりでなく、此地での生活体験が彼に日本文化に対する目を開かせ、後年日本学の傑出した学者となる素地を養う上で大きな役割を果たしたことも見逃すことが出来ない」と述べている。
 父からの送金も止まって、グンデルトは失意のうちに軍都村松を去り、翌大正4(1915)年8月1日から旧制熊本第五高等学校(のちの熊本大学)に赴任して行った。

 その後のグンデルト
 グンデルトは昭和11(1936)年に帰国してハンブルク大学の教授となり、総長まで勤めたが、敗戦後はナチスに協力的だったとして追放され、翌年には「退職主任教授」の肩書きで研究生活に戻った。同31年にドナウ河畔の町ノイ・ウルムに移り住み、以後、『碧巌録』をドイツで紹介することを終生の仕事とした。
 昭和31年8月12日に、水戸高校でドイツ語の生徒だった小池辰雄(東大教授。ヒルティ『眠られぬ夜のために』の訳者)がこのグンデルト家を訪ね、宗教談義に花が咲いた。この時小池は夕食を共にしたが、食卓には夫人の作った日本風うどんや、海苔、大根おろしが並んだ。食堂には祖父グンデルトと祖母ユリアの肖像が掲げられ、祖父の思い出話が語られた。さらに話は日本のこととなり、昔住んでいた新潟(村松)の話もしたという。
 昭和35年に80歳となったグンデルトは、カール・ハンザー書店から『碧巌録、禅仏教のバイブル 第1巻』を出版し、同42年に第2巻を、第3巻は没後の48年に出版された。
 グンデルトは昭和46年8月3日に91歳で没し、ヘレーネ夫人は15年後の同61年に103歳で没した。
 夫妻には子供が6人あり、明治42年4月に東京で生れ、村松で育った次男ヘルマン・グンデルトは、のちにフライブルク大学の古典学教授となり、プラトン研究の第一人者となった。彼は教授になってからも、自分の生れた国をなつかしく思っていたという。昭和49年10月に65歳で没した。子供が2人いる。
 明治44年5月に村松で生まれた3男エバハルトは、無線工学の分野で独創的な業績をあげたという。青年時代に手足などがまひする不治の病にかかったが、レナーテと結婚し、4人の子供をもうけた。昭和39年(41年とも)10月に肺炎を併発し、53歳で没した。
 大正2年10月に村松で生れた長女ハナは、昭和4年11月に16歳で帰国してシュトゥッツガルトにきており、ヘッセとともに父の故郷を訪ねてまわった。昭和36年にはシュティーテンクロン男爵と結婚し、スペインの地中海にあるマロルカ島に住んでおり、グンデルト夫妻もここを2度訪れている。平成7年に83歳くらいで没した。

 お わ り に
 星野慎一は、昭和46年に「グンデルト先生と村松町」で、グンデルトが村松町に住んでいたのは「なにしろ六十年も昔の話であるから、当時の様子を知っているひとはほとんどいなくなっていると思う」と書いている。そして終わりに、「この大学者が村松で五年間も農業生活をしておられたことを郷土のほこりと感じ、私はなつかしく想う。そしてどなたか郷土史に心あるかたがあるならば、いまのうちにこの文化的事実の周辺を、村松のほうからもっとさぐっていただけぬものであろうか」と呼びかけたが、村松側からの反応はほとんどなかった。
 しかしグンデルトが村松に多くのものを与え、また村松から多くを学んだであろうことを村松の人間が書き残せなかったら、それは恥というものである。これを機会に、一人でもグンデルトに関心を持つ人が増えてくれれば幸いである。なお今年は来松100年を記念して、私家本『ヴィルヘルム・グンデルト伝』(私家本)を出版する予定なので参照されたい。

 (2010年5月村松郷土史研究会発行の『郷土村松67』に発表したものを流用しています2018年  9月6日UP.12月6日写真追加)