ヘッセとグンデルト

                                 渡 辺 好 明
グンデルトの生い立ち
 ヴィルヘルム・グンデルトは1880(明治13)年4月12日に、南ドイツのシュトゥットガルト市郊外レンツハルデで、ダーフィット・グンデルトとマリーの長男として生まれた。
 子供のころグンデルトは、カルプに住んでいた従兄のヘルマン・ヘッセやヘルマン・グンデルト(のちに牧師となりヘッセの姉アデーレと結婚)と3人で遊んだ。グンデルトの父ダーフィット・グンデルトはグンデルト書店を経営していたが、シュトゥットガルトにブドウ山を買って耕作もしており、収穫の季節には年長児にブドウ摘みやブドウ搾りを手伝わせた。このブドウ山に蛙や山椒魚の棲む小さな沼があって、3人のよい遊び場だった。
 ある時3人でカルプのナゴルト川へ釣りに行ったが、ヘッセは足場の橋桁が折れて川に落ち、ヘルマン・グンデルトが足をつかんで引きあげた。また別の時に道ばたの川の氷が割れてヘッセが川に落ちた。グンデルトは走って引き返すと、「父さん、ヘルマンが大変だ。彼は可哀相なんだ」と報告したが、あとで盟友の二人に殴られた。
 1885(明治18)年の復活祭の前に病弱な母マリーは重い病気になり、グンデルトは8週間カルプの祖父母に預けられた。そののち87年2月に母は30歳で亡くなった。
 88年1月に父はヒルザウのヨハンナ・フェルトヴェーグと再婚した。そのため、グンデルトはヘッセとしばしばヒルザウに遊びに行った。ヘッセは70年経って、このヒルザウの古い大邸宅が秘密に満ちて畏敬の念を起こさせた、と回想している。そして少年の時にここの庭で見た高齢の鱒が、まだ苔むした石桶に生きていると聞いて、喜びとともに不気味さを感じて身震いしたと、「ジルス・マリーアからの回状」に書いている。
 グンデルトは、1896(明治29)年にウーラッハ市の初等新教神学校に入学した。ヘッセもチュービンゲン大学を目指して予備門のマウルブロン神学校で学んだが、92年3月に寄宿舎を脱走し、翌日警察に保護されて半月後家に連れ戻された。その時グンデルトの父ダーフィットは、息子に「ヘルマン・ヘッセのように、私をこまらせるな!」といったという。しかしいちばん恐れていたヘルマン・グンデルト(祖父)は、微笑を浮かべながら、青ざめて罰を覚悟しているヘッセに向かって、「お前はとうとう天才旅行をやったんだなあ」といっただけだった。祖父は日ごろ、「子供は愛する神からの高価な贈り物だ」といっていた。
 グンデルトは98年からチュービンゲン大学で学んだが、一学期のころ、同地のヘッケンハウアー書店で働いているヘッセを何回か訪ねている。グンデルトはよく本を読んでいるヘッセから刺激を受けたが、進歩的な雑誌『ユーゲント』を読む芸術家肌の彼の世界観にはなじめなかった。
 1900年にはハレ大学に学び、翌01年にはチュービンゲン大学神学部で哲学と神学を学んだ。

副牧師および正牧師時代
 1902年8月に、グンデルトは副牧師の試験に合格し、夏にデンマークで開催された国際キリスト教学生会議で、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』の英語版を見つけて読み、深い感銘を受けた。それでこの本をルイーゼ・エーラーに下訳してもらい、04年1月にグンデルト書店から出版した。折しも2月から日露戦争がはじまり、翌年5月に日本が日本海海戦に勝利すると日本への関心が高まり、ドイツ語版は売れ続けて10版を重ねた。このドイツ語版と内村の08年にグンデルト書店から出たヨハネス・ヘッセ訳『代表的日本人』は、アルベルト・シュヴァイツァーも愛読したという。
 一方、ヘッセは04年に27歳で小説『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』を出版して一躍有名となり、翌05年には『車輪の下』を刊行、新人作家の道を歩みはじめた。
 02年9月から04年4月まで、グンデルトはナーベルンの教会の副牧師となり、のちに妻となる牧師の娘ヘレーネ・ボッセルトと出会った。7月には正牧師の資格を得、伝道のための大学生同盟、ならびにドイツキリスト教学生会議の書記を1年少し務め、翌年10月からはベーテルの神学伝道候補者養成塾に入って、派遣伝道の準備を着々と進めた。
 ともあれ、この『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』の出版が機縁となって、26歳のグンデルトは1906(明治39)年に自由宣教師として、内村とYMCAを頼って来日した。

第一高等学校講師時代
 グンデルトは4月に東京に到着し、5月からは小石川の借家に移った。そして11月から、09年4月まで、第一高等学校の臨時講師としてドイツ語とラテン語を教えた。一高では08年の春から3年生の文科志望一部二の組に教えたといい、のちに文部大臣となった天野貞祐や哲学者和辻哲郎らがいた。
 また日本語学校にも通い、かたわら柏木(現新宿区の一部)に住む内村にも師事した。内村の自宅書斎で毎日曜に開かれる聖書研究会に出席し、内村の代講を日本語でしたこともあった。
 12月にヘレーネが来日し、31日にドイツ教会であわただしく式をあげた。2人は何週間か大久保の借家で暮らしたが、数週間後に内村のいる柏木に移った。
 07年10月に長男ハンスが生れたが、翌年10月に生後1年たらずで腸捻転のために急死し、雑司が谷墓地に埋葬された。グンデルトは自分たちが伝道のため来日したのに、高給をもらって安逸な生活を送っていたことを深く反省し、初心にかえって伝道者として生きるべく、09年3月に第一高等学校を退職した。

村松伝道時代
 グンデルトは1910(明治43)年6月から5年間、新潟県村松町(現五泉市の一部)の外れに居住し、キリスト教を伝道した。ここでグンデルトは庶民と同じ粗食を摂り、井戸水で顔を洗い、夏は浴衣姿であった。子供たちも麦の方が多いご飯を食べ、畳の上で育てられた。そして金曜日になると日曜集会の張り紙をして廻り、夏には浴衣姿で張って歩いた。最初は日曜の夜に自宅で集会を行っていたが、やがて近くに借りた聖書舎と名づけた民家で伝道を行った。はじめは5、6人の町の知識層が集まっていたが、やがて毎回15~6名が集まってきた。
 しかし1914(大正3)年7月に第1次世界大戦が始まり、ドイツは日本と敵対することになった。8月23日に日本がドイツに宣戦布告をすると、グンデルトは敵国人と見られるようになった。やがて独探(ドイツのスパイ)ではないかという噂が広まり、憲兵がやってきて取り調べを受けることもあった。

熊本第五高等学校講師時代
 グンデルトは収入のない伝道活動中には父からの送金と、友人たちが作ったグンデルトを支援する友の会からの送金で生活していた。ところが戦争が始まるとこれらの送金も止まって、グンデルトは失意のうちに村松を去り、1915(大正4)年8月から5年間、生活のため熊本第五高等学校でドイツ語講師を勤めた。
 一方、ヘッセはこのころスイスのベルンに住んでいたが、14年11月3日に、戦争反対の小論「おお友よ、その調べにあらず!」を『新チューリヒ新聞』に発表して、ごく一部の友人以外、全ドイツを敵にまわすことになった。
 19年6月28日に戦争が終結し、ヘッセは収入が激減する中で創作を続け、『デーミアン』、『メールヒェン』、『クリングゾルの最後の夏』などを発表していった。
 『デーミアン』を読んだグンデルトは、翌20年9月16日にヘッセの妹マルラへ宛てた手紙で、「私はそこで虚無の存在に気づき、そのためこれは自分の物語だと実感したのでした」と書いている。そして「我々は奇跡などないということを、一つの戦慄をもって理解する。この世界はすでに不可解であり、それは信仰で克服するしかないのです」といって、『デーミアン』に対し、深いところで意見の一致を見つけたと思った。
 彼は21年7月になって、前述の友の会に宛てて決別の言葉を書いている。それには「ゲーテ、ヘッベル、ヘルダーリン、オイケンが、自分にとってきわめて重要であった。彼らのおかげで、現代のドイツ人としての私自身の精神構造が理解されるからだ。」と書いて、キリスト教の信仰に基づかない偉大なものが存在することに注目し、その精神的な発展の中で、ますますヘッセに近づいて行った。
 20年2月に、ヘレーネは4人の子供を連れて日本を離れ、8月になって、グンデルトは後を追って帰国した。

ハンブルク大学での研究生活
 1920(大正9)年9月1日に船はマルセイユに到着し、グンデルトは10日にモンタニョーラのヘッセ家へ到着した。その後彼はヘルマン・グンデルトとヘッセの姉アデーレが住むエンツの家へやって来た。ヴィルヘルムの妻子が先に客人となっており、ヘッセの妹マルラもいた。ヴィルヘルムとヘッセの二人の姉妹たちは、再会を大いに喜び、共に過ごした青春時代や、17年にわたるマルラとの円満な友情といったすべてのことに思いを馳せた。
 グンデルトは21年にハンブルク大学でドイツにおける日本学の創始者カール・フロレンツ教授に学ぶため、10月25日にハンブルクに到着、大学の近くに良い部屋を見つけ、図書館で誰にも妨げられることなく研究を始めた。フロレンツは非常に好意的で、専攻科目の日本学の他にも、宗教史や哲学について、博士号取得のための助言を与えてくれた。
 グンデルトは22年の1月初めにドクター試験を終えると、2月9日にはヘッセを訪ねてスイス南部のルガーノで落ちあい、2人きりで数日を過ごした。

水戸高等学校講師時代
 グンデルトは22年に単身赴任でふたたび来日し、同年4月から27年までの5年間、水戸高等学校の講師になってドイツ語を教え、4人の日本人ドイツ語教師小牧健夫、相良守峯、実吉捷郎、吹田順助のドイツ語再教育にもたずさわった。
 この水戸高校時代のことを、同窓会誌が、「ウィルヘルム・グンデルト教師は、泉町の芝田屋旅館に居住して水高へ通った。漢字だらけの古事記を解説、源氏物語などを流暢な日本語でペラペラ喋ったので、生徒は驚いてしまい、その内生徒の方から国文法を聞きに行くしまつ。漢字もカナも自由に書いた」と載せている。
 グンデルトはシュペングラーの『西洋の没落』とニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んで、すべてを理解したと書いている。そして「私の人生は大いなる錯誤であった。(中略)絶望の底から一つの渇望がそれにも関わらず(独自の解釈ではないかもしれないが)生まれたのです。私はヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』に心が高鳴っています」と手紙に書いた。
 23年9月1日の昼に関東大震災が発生した。その日グンデルトは東京から旅行に出発し、汽車の中で強い揺れを感じたが、自身に被害はなかった。しかし何人かのドイツ人が亡くなり、牧師として葬儀をしてやった。
 ヘレーネはそのころ2人の娘を連れて、船で日本に向かっていた。9月10日に神戸港に到着し、罹災地を避けて汽車で迂回してグンデルトのいる軽井沢へ向かい、そこから一家で水戸に向かった。
 ヘッセは『シッダールタ』を22年に出版し、第一部をロマン・ロランに捧げ、第二部の献辞を「日本にいるいとこW・グンデルトにささげる」(高橋健二訳)とした。のちにこの献辞のことを、ヘッセは廉価版のあとがきで、「二つ目の献辞は、私の従弟であるグンデルト宛てで、すなわち私の友人の中で東洋の思想に最も奥深く沈潜し、ずっと以前から東方の空気の中で生きてきた人物に宛てたものであった」(『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集3』里村和秋訳)と書いている。
 『シッダールタ』は20年の3月に執筆が開始されたが、いきづまっていた。22年2月にグンデルトと再会した際、2人は家族の歴史やインドと中国の思想について語りあい、それがヒントとなって、そのあとこの小説は書き上げられたという。
 ところが『シッダールタ』はドイツで評判はよくなく、ヘッセがロマン・ロランへ送った手紙に、「今度の『シッダールタ』では私の個人的な友人がみな私を見捨ててしまいました」と歎いて、「それに対して、少数ではありますが、『シッダールタ』を――しかも、そのインド的な、人間的な要素も、私のごく個人的な神話も――好意を持ってすんなりと受け入れてくれ、故郷の空気のように吸い込んでくれる人もおります。その最たる人は、あなたと並んでこの本の献辞を受けている人、日本にいる私の従弟です。彼は、十五年以上に及ぶ東アジアでの生活の中で、日本の僧侶との長く親しい交わりを通して、あらゆることを学びました」(『ヘッセ魂の手紙』ヘルマン・ヘッセ研究会訳)と書いている。
 そしてグンデルトの300頁近い論文「日本の能楽における神道」は、ドイツ東洋文化協会が25年9月に発行した『ドイツ東洋文化協会報告19』に発表され反響を呼んだ。グンデルトはこの論文によって、ハンブルク大学の哲学博士号を取得した。

日独文化協会時代
 グンデルトは、1927(昭和2)年から36年まで9年間東京に滞在し、新設された日独文化協会の主事となり、ドイツ側の代表を務めた。協会ははじめ麹町の仮事務所にあったが、のちに日比谷公園の市政会館4階に移った。日独文化協会において、グンデルトは日本側主事・友枝高彦と協力して、精力的に協会の活動の基礎を作った。協会は発足以来10年のあいだに、「ゲーテ展」、「ドイツ建築展」、「デューラーからメンツェルに至るドイツ絵画展」、「シーボルト資料展覧会」のほか、多くの日独文化交流の史跡をたどる展示会の開催に尽力した。
 33年1月30日にヒトラーが首相となると、ただちにナチ化運動を推し進めて学問や思想の自由を抑圧した。グンデルトはハンブルク大学の日本学教授のポストを待望していたが、なかなか実現しなかった。それで息子は、教授になるには党員になる必要があると勧めたので、彼も入党を決意した。そして10月には日本学教授採用の通知を受け取った。

ハンブルク大学教授ならびに総長時代
 1935(昭和10)年の10月に一家は帰国の途についた。それからグンデルトは、フロレンツの後継者としてハンブルク大学の日本学研究科主任教授となった。そして翌36年には日本政府から勲四等旭日章を贈られた。37年にはハンブルク大学哲学部の学部長となり、さらに38年秋から41年まで総長を務め、その後も副総長の任にあった。
 7月29日の夜にハンブルク大空襲があり、蔵書やグンデルトのすべての手紙、日記も焼失した。それで一家はトランクを下げ、8月2日にボヘミヤ国境近くの農家に疎開した。9月30日から息子のパウルは兵士となり、残された3人は10月10日にグロース・フロトベックの枢密顧問官の別荘へ引っ越し、そして年末からグンデルトは再開された大学で授業を受け持ち、1月からは毎週「日本と日本人」の公開講座を持っていた。
 1945(昭和20)年5月7日にドイツ国防軍が無条件降伏をし、学校行政大学局から手紙が来て、グンデルトは8月12日をもって解雇された。しかし翌46年には追放を解除され、「退職主任教授」の肩書きを与えられて研究生活に戻った。
 グンデルトは46年4月11日に、米軍の支配地のショルンドルフへ転居し、妹レナーテ夫妻の家に同居した。そこへグンデルトを戦争責任者(主犯)とする起訴状が送られて来た。9月8日に審理が行われ、3人の強力な証言者がいた結果、グンデルトは「消極的な同調者」として等級づけられ、罰金600マルクを支払うだけで済んだ。

ショルンドルフ時代
 1946(昭和21)年にヘッセはゲーテ賞を贈られ、さらに『ガラス玉遊戯』をもって、ノーベル文学賞を贈られた。
 52年7月2日に、シュトゥットガルトの国立劇場でヘッセの75歳の誕生日が盛大に祝われ、テオドール・ホイス大統領が祝辞を述べた。後夜祭が工科大学で催され、ホイスは「私はいつも一人の模範となる偉大な人物を自分に持っています。そうなのです。私は今その人を紹介することができるのです!」といって、ヘッセを紹介した。翌3日のヘッセ記念式典で、グンデルトは祖父ヘルマン・グンデルトについて、そしてヘッセの母マリーと父ヨハネス、そしてヘッセについて報告した。
 グンデルトは52年に、東洋学者と3人で編集した『東洋の抒情詩』をカール・ハンザー書店から出版した。日本や中国、インドの詩を翻訳し、詩人について短い解説をつけたもので、名著の誉れが高い。この本のため、ヘッセは腰帯に生涯で一度きりの「全東洋の抒情詩を一堂にあつめた圧巻 目をみはるべき名著 ヘルマン・ヘッセ」と広告文を書いた。
 ヘッセは政治的には反対の立場にあったが、東洋の文化に造詣の深いグンデルトを敬愛していた。終戦から9年後の54年6月1日から5日にグンデルトはモンタニョーラのヘッセを訪れ、24年ぶりに再会をはたした。これはヘッセがグンデルトを許し、生きているうちに「血縁の竹馬の友」に会いたいと招いたもので、2人は5日間思い出を語りあい、東洋の文学や知恵について話しあった。この時のことを、ヘッセは「ジルス・マリーアからの回状」の中で詳しく報告している。
 このころグンデルトは『碧巌録』の翻訳を企画しており、その中の2則について、2人は2晩にわたって論じあった。そしてグンデルトがこの原稿をかかえて帰るのを、ヘッセは辛くて嫌々ながら見送った。

ノイウルム時代
 1954年2月3日にハンブルク大学から定年退官の通知が送られて来た。
 グンデルトは同年10月にドナウ川畔のノイウルムに移り住み、以後、『碧巌録』をドイツで紹介することを終生の仕事とした。
 56年5月14日から18日にかけて、夫妻はルガーノ湖畔のサン・サルバトーレに滞在した。そこへニノン夫人が2度車で迎えに来て、正午から夕方までモンタニョーラのヘッセ家に連れて行かれた。残念なことに、ヘッセは手の指と股関節の軟骨硬化症を患っていた。
 同年11月にもグンデルトはヘッセを訪ね、20日から23日まで滞在した。グンデルトは『碧巌録』から1則ずつ朗読した。そして、「ヘッセとニノンの二人が関心と忍耐をもって耳を傾け意見を述べてくれたことに、深く心を打たれた」と日記に書いた。
 夕食の前に3人は図書室でくつろぎ、カロッサやブレヒトについて語りあった。またヘッセはシラーとゲーテの関係について、シラーの影響がゲーテの上に良いことばかりではなく、彼が本来持っている指標からすれば、例えばクセーニエンは、それにも関わらず基本的には一つのムダな企てであったと話した。
 そしてヘッセは少年時代の思い出を語った。州試験前の休暇中にゲッピンゲンからシュトゥットガルトに向けて旅行をした時、同行のハインリヒ・ヘルメリンクがいった。「ぼくはひどく不安なんだ。試験に落ちたら農業をやらなければならない。それは絶対に嫌なんだよ」と。ヘッセはこれに対し「ぼくはもし試験に落ちたら自由な作家にでもなるつもりさ」と答えたそうだ。そのセリフはグンデルトもどこかで読んだはずなのだが、それは即座に導きの星となり彼は感動せずにはいられなかった。
 グンデルトが「読者から沢山手紙が来るだろうね?」とたずねると、ヘッセは「1年のうち私の書いたものを評価するのが5000通で、1000通の不評のおかげで落ち込むのだがね」と答えた。
 ヘッセはグンデルトに、君は長い教師生活で培った人生を持っているのだから、今から自分の過去を回想して、「本を1冊執筆しなければいけないよ!」と勧めた。そして『ガラス玉遊戯』のある頁を開いて指さし、「これは君のお父さんがハイキングの時にいつも歌っていたものだ」といった。それで我々は2人で、「そうだ、パウル・ゲーアハルトはすばらしかった!」といった。

 夫妻は三男エバハルトの家族と同居するため、57年にドナウ川近くの住宅街に家を購入し、5月に引っ越した。
 57年6月30日の日曜日に、シュトゥットガルトの歌のホールで、ヘッセ80歳の誕生記念式典が行われた。そこでマルティン・ブーバーが「精神にたいするヘルマン・ヘッセの奉仕」と題して称賛の講演を行った。そしてブーバーは控え室を退出する時に、グンデルトに向かって、「望むらくは、あなたの禅の本がまもなく完成するといいですね。私はいずれそれが読めることを願っています」といって励ましてくれた。
 57年11月4日の午後から8日の朝まで、夫妻はモンタニョーラのヘッセ家に滞在した。5日の午前まで雨が降り、彼らは庭の中を散歩した。そこでヘッセは柿や栗、イチジクの実をもいでくれた。
 『ガラス玉遊戯』について、グンデルトとヘッセは多くを論じあった。日記に、「物語の中で、ヤーコプ神父のためにヨーゼフ・クネヒトは教えているが、これはヤーコプ・ブルクハルトをモデルにしたもので、ランケよりも歴史家らしい歴史家として見なされている。彼は明らかにヘッセの物語を賢明にも理解していた」と書いている。ニノンが「あなたは本を書く時に、あらかじめ歴史書をたくさん読んで勉強するのでしょうね?」と聞くと、ヘッセは「ところが私はいつも個別的な時代だけか、またはアッシジの聖フランチェスコや、フリードリヒ2世など、ひとかどの人物に関心を持って読んだだけだよ」と答えた。
 それから尊敬する共通の祖父ヘルマン・グンデルトについて、彼の限界について、そして彼の独創性についてありのままに話しあった。
 7日には全員で旅行をする予定だったが、朝に中止された。そしてその日は、「我々は全員寝不足で疲れ果て、もはや昨日の元気はなく幽霊のようにさまよった。私はヘルマンとニノンに、もう飽き飽きしている『碧巌録』の中国語の原文を見せ、そして彼らに漢字の説明をした。(中略)8日の朝に旅立ちがやって来た。ヘルマンは朝食の時にふざけて修道士のような口調でいった。「私の父はハシバミの実の上に文字を書き、小さなコルクの平皿にケルンの大聖堂の絵を描き、私に愛情のすべてをキスといっしょに感じさせてくれた」と、グンデルトは書いている。

『碧巌録』の翻訳
 1960(昭和35)年9月にグンデルトは、『碧巌録』の3分の1を翻訳し、カール・ハンザー書店から『碧巌録 禅仏教のバイブル』第1巻として出版した。『碧巌録』は禅の根本的な原典でありながら、それまでヨーロッパ語の全訳はなかった。
 この第1巻を贈られたヘッセは大きな喜びをもって読み、同年9月に感想をグンデルト宛の手紙(『ヘッセからの手紙』ヘルマン・ヘッセ研究会訳)に、「君が忍耐につぐ忍耐を重ね厄介至極な作業の末、人生の晩年の十年以上の歳月を費やして完成させた、最初はその巨大な輪郭しか見えなかったこの大いなる成果ほど、僕を深く感動させ、僕の中の東西混合的な、本質をすみずみまで揺り動かし、そうしてかくも心うれしい思いを味わわせてくれたものはなかった」と書いて称賛をおしまなかった。
 さらに、「いつか一人のヨーロッパ人がこの多層的で七重の封印の施された奇蹟の書を読み、理解し、いかなる損失もなく西洋キリスト教文化の遺産をよすがとしてその心をあますところなく把握し、解釈し、ましてやそれを(正確には最初の三分の一だが)翻訳することができるとは、つい最近までは全く考えられないことだったのだ。(中略)この作品の一面(たとえば哲学的な面、宗教史・化史的な面、教育的な面)ばかりをとらえるのでなく、その複雑な全体の圧倒的な印象に心を開く者は極めて少数だろう。研究者、有識者としての長い生涯をかけ、膨大な言語学的・哲学的補助資料を駆使し、日本での何十年もの生活の間に培われた忍耐をもって、そのように奇妙な、我々の西洋の精神とは全く異質な、全く頑固な、素晴らしく入り組んだ巨大な作品を翻訳するという君のもくろみ」が我々の心を圧倒したと述べている。そしてこの手紙は、10月3日の『新チューリヒ新聞』に「圜悟禅師の『碧巌録』」という題でそのまま掲載された。
 ヘッセは翌61年に「私家版『禅』(一九六一年)について」という小文の中で、グンデルトと『碧巌録』について、次のように書いている。「そして彼は、モンタニョーラを数回訪問した際に、自分の膨大な晩年の業績の成立に、まさしく『碧巌録』の翻訳の完成に、妻(筆者注:ニノン)と私を立ち会わせたのである。彼が私たちに一章を朗読してみせると、それはその都度私たちにとってすばらしい厳粛なひとときとなった。そしてこの朗読では私たちを大いに笑わせる場面もあったが、有益な効果が損なわれるものではなかった。この作品は一九六〇年の九月に出版された。初めて読むのに(私の妻が朗読してくれたのだが)数週間かかった。それ以来、この本とそれに関する熟考は、私の日々の大部分を占めた」(『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集3』里村和秋訳)。
 続いて67年にカール・ハンザー書店から『碧巌録 禅仏教のバイブル』第2巻が出版され、グンデルト没後の同73年に中国学のデボン教授の協力によって、『碧巌録 禅仏教のバイブル』第3巻も刊行された。

晩年のグンデルト
 グンデルトは、69年2月21日に外国人叙勲として日本政府から勲二等瑞宝章を受章し、翌70年には日本学士院から名誉会員(外国人は名誉会員となる)に推された。
 1971(昭和46)年8月3日に、グンデルトは91歳で没した。晩年は慢性の心臓病をかかえ、視力も衰えていた。
 グンデルトより9年前に他界したヘッセは、生前グンデルトを論評して、「学生時代が過ぎると彼は伝道の目的で日本へ移住した。初めはできるだけ深く、正しく、異なる風土と民族に共感し、共住するのが目的だった。何年もの間、日本の着物を着、日本式に住まい、眠り、日本式に飲食してきた。明るいシュワーベン人の風貌に加えて、アジア人の静寂、忍耐、沈潜を身につけたため、彼の精神特性は、プロテスタント―敬虔主義の伝統と衝突することなく、東方の伝統、叡知、特性の美点を吸収して徐々に発展し、東方の言語、文学、宗教を自分の中に蓄えるばかりではなく、それを実らせ、血肉とすることができた」(鹿子木敏範「ウィルヘルム・グンデルトの生涯と業績」)と述べている。
 そしてグンデルトのことを、東大の新田義之や東京教育大の星野慎一は、「今世紀最大の日本学者」と高く評価している。

まとめ
 ドイツ・ズーアカンプ社の編集顧問でヘッセの全集や書簡集を編纂してきたフォルカー・ミヒェルスは、「ヘッセはドイツと日本という「地球上で最も高度に工業化した二つの国で、あわせて一千二百万部以上もの発行部数で、今世紀最も多く読まれたヨーロッパの作家となった」(『ヘッセからの手紙』所収「日本の読者に」)と書いている。
 筆者は、ヘッセが日本で多く読まれたのは、グンデルトの仲介によって、水戸高校の教師グループ小牧健夫や相良守峯、実吉捷郎らが積極的にヘッセの作品を翻訳し刊行したため、日本の読者は彼の旬の小説を読むという幸運に与った結果であった、と考える。
 グンデルトは「『碧巌録』独訳余話」の中で、東洋と西洋のこれからあるべき姿を、「いずれにしても仏教とキリスト教の間には内的な親近性にもかかわらず、やはりどこまでも或る微妙な相異が存する。この相異が今日既に消え去りつつあるかもしれないと期待することは難しい。むしろ反対に、双方がそれぞれ特有の「分」を真剣に忠実に守り育ててゆくという点に於いて競い合うというようになれば、それが良いと思う。(中略)経験の示すところに依れば、キリスト教徒が禅に真剣にたずさわることに依ってキリスト教の信仰と愛とを確かめ深めることができるのである。逆にまた、イエス・キリストに於いて具現されているような愛から何か学ぶべきところがないかどうか省察してみることは禅仏教徒にとって無駄ではないであろう」(上田閑照訳)と書いている。
 これはヘッセが日本の『ヘッセ全集』(高橋健二訳)のため、55年5月に書いた序文に照応する。「東洋と西洋が真剣で実り多い相互理解を果たすべきであるということは、私たちの時代のまだ実現されていない大きな要求です。そしてそれは政治や社会の領域だけのことではありません。それは精神と生をめぐる文化の領域での要求でもあり、大きな課題なのです。今日日本人をキリスト教徒に、ヨーロッパ人を仏教徒や道教信者に改宗させるなどということはもはや問題ではありません。私たちがなすべきであり、またなそうと欲しているのは、改宗させたり改宗させられたりすることではなく、自分を開き、自分を拡大することです。なぜなら私たちは、東洋と西洋の知恵がもはや敵対して争い合う勢力ではなく、実り多い生がその間に脈打っている二つの極であることを知っているのですから」(『ヘッセからの手紙』)と主張している。
 これはヘッセ80歳の誕生記念式典で、ブーバーがヘッセは「人類の全体性と統一のために力を尽くした」と述べたことに重なっている。西洋の知性が発見した東洋の知を、我々はしっかりと受け止める必要があるだろう。

 (2019年3月31日 日本ヘルマン・ヘッセ友の会/研究会発行『ヘルマン・ヘッセ友の会報
  №24』に発表したものに写真を1枚追加しています。2019年6月17日up.)