褧亭蒲生重章伝

                      村松郷土史研究会会員 渡 辺 好 明

 蒲生辰三郎重章(しげあきら)は越後村松藩の儒者で、のちに江戸に出て医師、および有為塾主となった。維新後には大学昌平校の教授となり、『近世偉人傳』の著者として名声が高かった。ほかにも章、意讃、精庵、省庵と称している。字は子闇、号は褧亭(けいてい)、また綗亭(けいてい)といい、白囊子(はくのうし)、白賁子(はくふんし)、蠖屈(かつくつ)潜夫、青天白日楼主人、睡花仙史、善諷子と別号した。
 重章は村松の医師堀意碩重利の子で、村松勤王派の主導者堀祐元重譲、刑死した村松七士の1人佐々耕庵高達、勤王家蒲生済助重修は従兄にあたる。天保4(1833)年に生まれ、7歳で父を亡くして、伯父の藩医堀玄意重喬に育てられた。
 父の意碩は外科の村松藩医蒲生玄意重澄の3男で、解縛園と号した。京都に遊学して産科医奥道逸に学び、産科の秘訣を極めてその高弟となった。手術の技に優れて出藍の誉れがあり、都下で開業するに十分の腕があったというが、多病のためか終生仕官をせず、天保10(1839)年に村松で町医者としての一生を終えた。解縛園の号は師の奥道逸から贈られたものである。重章は幼くしてこの父を失ったため、せっかくの名医から教えを受けることができなかったと、終生悔やんでいた。
 重章は11歳(年齢はすべて数え年)から19歳まで村松において、幕府の儒員古賀精理の門人である藩儒加藤松斎の私塾樗散堂に学んだ。嘉永6(1853)年夏21歳の時に(また5年とも)、第9代村松藩主堀直央の生母精和院の出府に従い、ペリーが浦賀に来航して騒然とするなか江戸に出た。そして藩邸近くに住む幕府の奥医師湯川安道の塾に入り、多紀辻元らにもついてさらに漢医学を学んだ。
 安道の子湯川台南は、修行時代の重章のことを、「子闇、与の門に遊び殆んど十年、日夜研精以て医道を修む。異端(西洋医学のことか)を排斥してその志甚だ壮なり。余暇又詩文を撰みて乾乾息まず。草稿山の如し。故に我門の人才独り子闇を推す」と書いて褒めている。
 文久元(1861)年に29歳で執筆し、翌2年に出版した自著『夢見録』はわずか17枚の木活本の小冊子で、表紙裏の中央に「夢見録」、右に「文久二年壬戌夏新刷」、左に「晴天白日樓藏書」とあるという。
 筆者はまだこの本を見たことがなく、したがって『夢見録』については孫引きである。現在この本は陽の目を見なくなって久しく、国立国会図書館にも収蔵されていない。『明治先哲医話』の著者安西安周は、かねて『近世偉人傳』の著者として重章を崇拝していたところ、はからずも祖父安西安宅が愛読した蔵書の中に『夢見録』を見つけ、重章が医師であったという資料を入手して、ますますこの老人が好きになったと書いている。このように、『夢見録』は一部のマニアにとっては珍重すべき本であったようである。今でも個人的に秘蔵している人がいると思われるが、幻の書となってしまった。
『夢見録』の自序に、

孔子曰く、甚しいかな吾の衰ふるや、久しいかな吾また夢に周公を見ずと。則ち知る、孔子盛時の志は周公の道を行ふにあるなり。予少くして医道を好み、竊かに徳本翁の志行の潔を慕ひ、子玄子の気節の高を仰ぎ、夢寝の間に至って或は之を見る。而して質弱才卑、唯その二子の偉蹟を履む能はざるを恐る。乃ち之が伝を作り、今刻して一巻となし、名けて夢見といふ。予の志を見はす(あらわす)所以なり。嗚呼、予年二十九、質弱才卑といふと雖も、その夢に見るところ猶あり。今にして勉めずんば、則ち時すぎ年老い、異日或は将に孔子の嘆あらんとす。

 と志を述べている。孔子が周の政治家で儒教の聖人周公を理想としたように、重章は聖医といわれた甲斐の徳本や、名医賀川子玄を理想として日夜研鑽した。
 永田徳本は生国不詳、戦国の世を嫌って諸国を周遊し一か所に留まらなかったが、甲斐にいた日が長かったので甲斐の徳本という。甲斐に草庵を構え、出かける時に首に薬囊を掛け、牛にまたがって散策した。富貴の者を軽視し、貧しい人には同情的であった。また自ら薬籠を背負い、「甲斐の徳本、一服十八文」と呼びながら薬を売り歩いた。寛永のはじめに、前将軍徳川秀忠の病気が治らないため徳本が招かれて治療し、数日後に恢復させた。しかし徳本は秀忠の厚い謝礼を断って、信州の家に帰ったという。
 賀川子玄は江戸時代中期の産科医で彦根の人。だれにも学ばず独創で産科の術を立て、『産論』を記述、これを皆川淇園が加筆・潤色して世に広めた。それまでお産は内科の一部で薬や呪い札に頼っていたが、子玄が助産の手術を考案して産科の分野が確立した。産鉤の創始者と伝えられ、後世に大きな影響を与えた。誠実で侠気があり、好んで貧しい者を救った。権貴富家に招かれても礼を失する者には応じなかったという。
 重章は医学の勉強のかたわら、『海防論』を著して水戸斉昭に褒められたという藤森弘庵の塾専洋設堂や、経学の注疏に優れた業績を残した海保漁村の門に出入りして儒学や詩文を学んだ。諸藩の尊攘の志士と交わり、黒船来航に強い危機感を抱いて、堀祐元に『抄録諸家海防策』や『墨使国書和解幕吏応接書類』の写を見せて村松藩にも情報を提供した。これらの資料はさらに祐元から藩主直央に伝えられたという。
 このころ、越後三条出身の勤王家村山半牧が出版した藤田東湖と吉田松陰の遺文を入手して読んでいる。また具体的なことは不明だが、詩を作って一高官を罵り、怒りを買って潜伏していたこともあるという。
 安政6(1859)年に伯父重喬から手紙が届き、これを読んで詩を作った。

 喜得脩靜※丈人
我屋向正東。曉起旭日紅。不患寒威冽。南軒暖如烘。今日有何喜。喜鵲噪庭松。起開南窓立。思鄕望碧空。空氣含春意。紙鳶驕軟風。階下草抽綠。凍渠融□□。因想故園屋。猶在積雪中。梅莟小於豆。庭渠凍不通。丈人無恙否。方此嚴寒冬。雖有狐狢厚。豈其耐老躬。沈思茫然坐。忽聞足音跫。驚喜開戸見。鄕使持書筒。乃是丈人書。再拜啓緘封。字字痩蛟走。行行墨色濃。首祝姪卜築。尾勸姪遂功。絶無衰老氣。恍如接音容。讀了重又讀。感涙潸落胸。※猶子恩未報。此身未免窮。憑使且傳語。縷縷吐深衷。唯恨隔千里。難物供庖饔。焉得縮地脈。當此軒日融。烘我丈人背。且侑備釀醲。

 ※丈人 老人または岳父のこと。ここでは伯父重喬をさす。
 ※猶子 養子または本当の子のような者。
 この時たまたま村松に帰る人がいたので、重章は伯父の「老を養う」ため備後の美酒「養老」を1樽送り届けさせた。
 ところが同年2月に、重章は村松藩に儒医として召し抱えられて村松に帰っている。しかし重臣とことごとに意見があわず、3月には早くも追放となった。『北越詩話』では重章の子から聞いた話として、重章が藩からの養子の命令を拒否できず出奔したという。どのみち、重章は3万石の村松藩という器には入りきれない人物であった。
 村松を去るにあたり、70歳になろうとする伯父玄意は泣いて涙で衣を濡らし、重章も嗚咽して話すことができなかったという。
 この養子話のいきさつは、堀祐元の『手控』(『松韻』に所収 古文書倶楽部 平成13年)にも書かれている。安政5年10月8日に、国許の村松において祐元が年寄(家老)に呼び出されて出頭したところ、当時祐元家の「厄介」身分であった蒲生意賛こと重章に、加藤松斎の婿養子になるよう申し付けよ、とのことであった。これは子供のない松斎が、重章の才能を見こんで、自分の後継にしようと藩に願い出ていたためであった。祐元はすぐに仰付書を作って翌日の江戸便で送り届けた。ところが18日に江戸から飛脚が到着して、重章から養子御免願いが届けられ、さらに12月26日に5日間の「引込」を終えて祐元が出仕してみると、休暇中に重章からの御免願いと師湯川安道の直筆書が届いていた。早速年寄に報告したが、書状はそのまま留めおかれた。年が明けて2月5日に重章は村松に到着、年寄にそのことが報告されている。しかしその後の詳しい消息についての資料はない。
 重章には意庵という弟が1人いたが、重章は自分が父解縛園の家を再興するという強い希望を持っていたといい、養子話はとうてい受け入れられるものでなかった。
 自ら青天白日楼主人と号し、このころの心境を詩に詠み、「一片丹心向誰語。群鶏一鶴未得処。三宿出境雖濡滞。去父母邦君須恕。莫道把鉄鋳大錯。飄零作客亦不悪。満目江山清淑気。吸入詩腸一磅礴。俯省未必誤此生。仰見蒼天天転清。俯仰我曽無所愧。晴天白日放歌行」としてその志を見せている。また彼の文に「士の志、この世にある者、身通顯せずと雖も、いずくんぞ自ら輕んずるを得んや」とあるように、俗世の栄達を考えず、自らの志を貫くところがあった。
 そののち、重章は大きな白囊(白い袋)を腰に巻きつけ、海内を遊歴し、病人を治療して謝礼金を得ていた。この白囊に「長鋏左横秋水寒。大囊右佩玉蟾團。箇中蒲子盛何者。半是詩丸半薬丸」を記し、中に書きとめた詩や薬丸を入れて持ち歩いた。それゆえ白囊子と号した。少々奇人の部類に入りそうである。
 この遊歴中に相模の山中で数人の強盗に襲われた。重章は橐(ふくろ)を倒してこれを強盗に与えたが、腰の白囊は懸命に護った。強盗は白囊に貴重品があるとみて刀を抜いて脅し、取り上げて中を見ると詩稿と薬丸ばかりで、大笑して立ち去ったという。残った金はわずか16文しかなく、ふたたびいくばくかの金を稼いでから江戸に戻った。
 翌万延元(1860)年の春には、房州鋸山下(現千葉県三芳村谷向)に住む漢詩人※鈴木松塘の家に寄寓し、当時16歳の松塘の子透軒と2人で詩を作り、文を草し、古今のことを比べて論評し、慷慨悲憤、「天下の憂いに先んじた」という。翌文久元(1861)年に江戸へ戻ったが、透軒は重章を慕ってしばしば自作の詩を書き送った。慶応元(1865)年の春に透軒が結核で吐血したため、松塘の招きに応じた重章はふたたび鋸山下に赴き、数日留まって治療した。そのかいもなく、5月になって透軒は22歳で没した。明治17年に父松塘により『透軒遺稿』が出版され、透軒は大阪の田中金峰と並んで東の天才と謳われた。『透軒遺稿』のうち、跋と鱸孟陽(鈴木透軒)伝は褧亭こと重章の筆になる。なお、透軒の号も重章が命名したものという。
 ※鈴木松塘 自ら鱸(すずき)と称し、名を元邦という。漢詩人。遊歴を好み、ほとん ど日本中を歩いて各地で詩を作った。明治元年に江戸浅草向柳原に七曲吟社を創立して子弟に教えた。
 この『透軒遺稿』に収められている「寄懷蒲生子闇」と題する詩の中に、「愧我粗才住田野。羨君令譽滿江城」という一節がある。これによれば、漢詩の世界における重章の名声はすでに江戸で高かったようである。
 村松藩医片桐道候の日記『従余所好漫録』(『靖亭先考遺稿 全』所収 平成15年高地彰発行)によると、万延元年4月26日に、片桐が江戸の牛込横寺町(現新宿区横寺町)に堀祐元の末弟蒲生祐季(のち堀重順)を訪ねたが留守で、同居中と思われる重章の弟意庵に対面して帰った。翌日には意庵のほうが片桐を木挽町(現中央区銀座5丁目のうち)の清川玄道の塾春雨堂に訪ね、そのあと2人で隅田川堤を散歩、川桝楼で軽く酒を飲んで別れている。
 また重章は、安政6年の夏に堀祐元と藩邸のある江戸の下谷で再会している。
重章は諸国の歴遊を終え、文久2(1862)年9月から江戸飯田町の俎橋(現九段下に俎板橋あり)付近で私塾有為塾を開いて儒学(漢学と漢医学)を教授した。同時に医業も行ったので患者がいっぱいであったという。性質は穏やかで上品、人と争うことはなかったが、こと義に関しては堂々として怯むことがなかった。慷慨の士で、常に幕府の末運を唱えたといい、しばしば塾に勤王の志士を匿ったりした。また、祐元が藩内で佐々耕庵や蒲生済助らと尊王攘夷の大義のため尽力していると聞き、おおいに喜んだという。
 堀・蒲生一族がなぜ過激な尊王攘夷思想を持つようになったかは資料に乏しいが、一つ考えられるのは菊池大和守の影響である。大和守は村松藩領見附諏訪神社の神主で、竹内式部に学び勤王思想を抱いた。堀祐元や蒲生済助はこの大和守の親戚であり、また佐々耕庵の養父佐々長庵高寿は大和守の教えを受けているなど関係が深かった。
 竹内式部は新潟出身の江戸時代中期の国学者で、京都に出て垂加神道を学んだ。武術にも秀でて軍学を修め、博学多識、文武を兼ね備えた達人たること当代第一と称された。京都で家塾を開き、大納言徳大寺公城をはじめ門人は約1000名におよんだ。日本の建国の由来、皇祖皇宗の遺訓、侵略を受けたことのない無欠の国体を明らかにし、万世一系の皇統と大義名分のあるところを力説した。皇室の衰微を挽回し、進んで武門政治を廃し、王政を古に復そうと説いたため、別件を口実に八丈島に流された。
 元治元(1864)年は波乱の1年で、3月には筑波山に水戸の天狗党が挙兵、7月19日には禁門の変が起き、8月5日には長州藩による英国および連合艦隊との戦争が勃発した。そのころ仙台藩の漢学者※岡千仞が重章の麹町の屋敷を訪れている。重章はこれを喜んで迎え入れ、楼上に案内して時事問題を思いのたけ激論した。16年後の岡の回想文によると、今でもその時の重章との会見を思い出すと、寒気が激しく身にしみ立ち竦むとある。諸国の勤王家と交際していたため、しばしば幕府の探索を受けており、岡は重章が生き延びたのは幸運であったと書いている。重章は夜中におきて原稿を書いたが、筆を投げ出してうろついたり、机を強く叩いて大声を出したりして、家人が驚いて起きたこともあり、熱中のあまり心の常態を失うこともあった。
 ※岡千仞 号鹿門。昌平黌舎長、明治3年大学助教、のち修史館協修、東京図書館長となった。重章の『近世偉人傳』に序を寄せている。村松の住吉神社にある堀岶陰(蒲生済助重修)の記功碑は岡の撰文による。
 この元治元年の11月1日に、筑波勢約800名は、武田耕雲斎を総大将に京都を目指して北上を開始した。途中各地で交戦したが、12月17日に越前において降伏、翌慶応元(1865)年2月に耕雲斎ら353名は処刑された。
 慶応元年の夏の一日、重章は※大橋仲載(陶庵)、※関口艮輔、片桐省介(後出)と4人で深川の平清楼に行き、芸者小三を呼んで酒を飲み、時事問題を論じて慷慨した。小三は耕雲斎の愛した女性で、当時の尊攘家は小三から耕雲斎の遺話を聞き、一代の英雄を偲んだという。重章らも同様であったが、小三から耕雲斎の書1巻を見せられた重章は、その場で「邂逅英雄事頗竒。玉纎彤管記如糸。行々讀到和魂字。初駭杞憂出女兒」の詩を作って贈っている。
 ※大橋陶庵 儒者で諱を正燾という。維新後に大学教授となり、辞職してからは経学を子弟に教授した。詩と書を能くした。
  ※関口艮輔 幕臣で御弓持与力をしており、開港説を唱える勝海舟を襲撃したこともある。維新後は山口県令、高等法院陪席判事、元老院議官、静岡県知事を歴任した。
 この年、重章は隅田川端に別荘を建築した。北は妓院に接し、西に劇場(現台東区浅草6丁目に歌舞伎の劇場があった)があり、東に川を臨み、いつの季節も良いので四時皆宜荘と号した。
 慶応2年11月16日から郷里村松で尊攘派への藩の弾圧がはじまり、まず佐々耕庵が捕えられた。翌3年5月19日には主だった者7人が処刑された。村松七士事件である。
 堀祐元は村松藩尊攘派の主導的役割をはたしていたが、事件に先立つ慶応2年6月28日に没したため、この弾圧を免れた。蒲生済助は儒者で、七士連署の上申書をしばしば書いて藩主堀直賀に提出していたが、その内容の一部を咎められ、慶応元年10月20日に隠居のうえ自宅禁固になっていたため、これも七士事件には連座しなかった。
 明治元(1868)年6月1日をもって江戸鎮台府が開かれ、鎮台大総督に有栖川宮熾仁親王が就任、摂政に三条実美、加席万里小路通房、補烏丸光徳、上京岩倉具視、参与大久保利通などが任命された。ほかに学校奉行に片桐省介、参政執事江藤新平、同大村益次郎らが名を連ねている。重章も36歳で新政権の一翼を担うため召し出され、東大医学部の前身である医学館(医学所とも)に招かれて用掛りとなり、7月から病院に出仕、5か月後の同年12月15日には太政官記録編輯掛りに任命された。これは重章の実力もさることながら、彼が尊王攘夷家としても一廉ならぬ功績があったことを物語っている。
 医学館は幕府の西洋医学所を再興したもので、病院は下谷の藤堂藩邸跡(現千代田区神田和泉町か)に設けられ、用掛りは運営面での最高責任者であった。ここははじめ東北地方の戦線から送られてくる傷病兵を治療する軍事病院だったが、9月からは一般住民にも開放された。重章が病院をやめたあと、翌2年1月から、新政府軍の軍医として北越戦争にも従軍したイギリス人ウイリスが責任者となった。西洋医学嫌いの重章が医学館の責任者になったのは奇異な感じもするが、混乱期の病院運営に手腕を期待されたのだろう。
 この重章の新政府出仕のことは、すでに勝海舟の日記(『勝海舟関係資料 海舟日記(三)』東京都ほか 平成17年)同年6月17日の条に、「森雄二郎来訪。云。蒲生修庵(精庵)と医(ママ)。督府江被召出と」とある。重章と海舟の関係は不明だが、海舟が新政府の人事に関心があることを示している。「と医」は開明派の海舟が漢方医を卜医(占い医者)と呼んで蔑んだものか。しかし当時日本の漢医学の水準が高かったことは、森鴎外の小説『渋江抽斎』などを読んでも理解できる。なお「督府」は大総督府のこと。
 この新政府出仕を境として、重章は医学の実務を離れ、儒学者としての道を歩むことになった。『明治先哲医話』の著者安西安周は、重章が医学の道を捨てなければ、明治の漢方医学の大御所浅田宗伯や今村了庵らとともに、この分野で多いに貢献しただろうと惜しんでいる。
 この転向について、のちに重章は自ら次のように書いている。

 余、先生(湯川安道)に長者坊に於て師事する者殆んど十餘年、その病を療するを觀るに往々人の意表に出づ。これ則ち醫學淵源の深きに由ると雖も、けだし妙悟亦天性にいで、その治驗藥案傳ふべき者甚だ多く、余竊かに之を記し、遂に斯道を以て當世に馳騁せんと欲す。而して世故變遷、異端横行、頗る此輩と奔波以て富貴を擢くことを愧ぢ、退然跡を戢めて門を杜ぢ、却掃專ら文字に從事し、まち醫を業とせざるなり。

 明治元年10月13日に明治天皇は東京に行幸して江戸城に入った。先に東京にきていてこれを迎えに行こうとする大久保利通に、重章は1編の詩を餞むけに贈った。「誰把乾坤一斡旋。英雄我識有其人。西奔東走勤 王事。航海先迎 鳳輦巡」。大久保は喜んでさっと鬚を持ち上げ、「善矣」というと詩を懐に出て行ったという。
 翌2年には昌平坂の大学昌平校(のちの東大の一部で、儒学と国学を教えた)3等教授兼記録編集掛りとなり、同3年に「藤原朝臣蒲生重章」は累進して太政官少史従7位守に任官、禄130石を給された。当時の大学昌平校は1等教授1名、2等教授2名、3等教授4名であったから、重章は7本の指に入っていたわけである。ところがいくらもせず、翌4年には官位を下げられている。同8年夏に東大史料編纂所の前身太政官修史局に入り、9年ころには3等協修となったが、同10年に退官し、著作をしたり飯田町1丁目6番地の家塾で門弟を教えたりして悠々自適の生活を送った。なおこの土地は現千代田区九段南1丁目5の3にある九段ビルにあたり、もと幕臣小笠原順三郎邸の一部であった。
 修史局に在職中、時々小詩や気ままな文章を書いて小役人に伝写させ、院長に弾劾されたという逸話を残した。これについては重章自身、殉難した志士の経歴を問い合わせる個人的な文書に記録局の公印を使ったため、同5年に懲戒処分にあったと書いている。このころすでに偉人伝の資料となるようなものを集めていたようである。
 明治5(1872)年11月には有為塾の生徒数男6名となっているので、勤務と学校経営を兼務していたわけである。
 翌6年に東京府に提出した開学願書によると、有為塾は飯田町1丁目6番地にあり、入塾生徒は身元をただしたうえで許可し、生徒の出入りは厳重、外泊する時には証明書を持参させたという。学科に漢学と漢医学の2つがあり、教則は経史子集二七、左氏伝輪講五十、論語講義四九、日本外史輪読三八、孫子講義となっており、余暇には文や詩を指導した。学費は束脩(入学金)なし、「定額金三方」、月謝随意としているが、重章らしく、貧者はこの例にあらずと特例をもうけている(『東京都教育史資料大系 第一巻』東京都立教育研究所)。
 同8年には私立中学校設立の認定を受けている。世の中はすでに洋学が隆盛となって漢学塾は廃れつつあったが、有為塾と三島中洲の二松学舎のみは繁栄していたという。塾生はつねに数十名いたといい、同14年の文部省の調べでは、有為塾の生徒数235名とある。家には子弟や使用人が40人余りいっしょに生活し、「團欒戲壽乃公前」と賑やかであった。
 ちなみに中学校は明治6年に全国で20校、同8年に116校、同10年に389校、同12年には784校と急増したが、のちに基準が厳しくなって、同19年には56校まで減少した。
 この有為塾には、明治の初めに村松藩士の中川重蔵(木斎)も学んでおり、また堀祐元の長男元琢が勉学のため上京して、重章の家に寄宿している。ほかにも水原出身の北辰隊軍監伊藤退蔵の子某も学んでおり、同15年には南蒲原郡下条村光徳寺の奇僧銀田石牛(『近世偉人伝』所収「銀田石牛伝」を参照のこと)が入塾して2年間学んだ。銀田はのちに出てくる岡田后得の親友で、岡田の紹介で入塾したものであった。
 また漢文の得意な学生に、同12年ころ水戸の友部確、加賀の高島伸、竹内広業、広瀬秋、同14年ころに立花敬勝、南総の地引準、加賀の山田直太郎、佐久間正親、杜岡文平、根岸卯之介、同22年ころに摂西の久保雅友、北越の渡辺鉉などがいた。
 このうち山田直太郎は有為西塾生というから、塾には分校もあったらしい。小笠原邸跡は後出の石谷邸跡の西南2軒隣にあり、これを西塾といったようである。
 明治10年から出版した『近世偉人傳』(一部は『新潟県史 別編3 人物編』に収載)11編22巻はベストセラーとなり、同24年までの間に12編を出して、出版するたびに世間の人は争ってこれを買い求めたため、5編が出たころには「数千金」を得て、一躍文名が世に知られるようになった。同書は社会の不義や不正を憤って歎く人や、世に隠れた高踏な人物を広く採り上げ、またごますり官僚や真実を曲げるえせ学者、守銭奴、洋学や西洋医学を罵って自ら溜飲を下げ、これをもって警世の書とした。この本を出版するにあたり、重章は廃園を買って桐と茶を植え、費用にあてたという。
 のちに重章に金があるのを知って言葉巧みに近づいた1書肆があり、多額の金を借りて倒産したため蓄えを失ったが、重章は笑ってくじけず、100尺の高台を新築して友人を招き、その上で酒を飲んだりして散財した。この事件と同じ月に娘と姉を亡くしたため、「※黄楊閏年厄」とよんでいる。
 ※黄楊(つげ)は3月に咲くので3月の意味か。
 その庭園は100余間の長さがあり、花や竹が道をはさみ、庭石は苔むして老樹が茂り、城中と思えないほどの幽趣があった。重章邸は江戸城の外堀内にあり、内堀の牛ケ淵からも150米ほどの距離であった。生垣の向こうには飯田川があって満潮になると水が漲り、水音がさらさら聞こえ、岸には篷(とま)舟が繋がれていた。高台に登れば東に俎橋が見え、橋の上には通行人が絶えず、遠く駿河台の林の連なりが一望できた。園の北に玲瓏斎(れいろうさい)と名付けた書斎があり、これの東南に格子窓を設け、机をきれいにしてから周易を読んだ。
 明治元年8月18日から、史官試補の蒲生精庵は元幕臣石谷金之丞の九段下新し橋(現千代田区九段南1丁目4の6)の屋敷578坪を借りており、庭園の記事とも符合するところから、ここが重章の豪邸だったようである。俎橋西詰め南にあたり、現在その跡は九段郵便局となっている。
 『近世偉人傳』では著者としてのほか善諷子の号で文および人物の寸評を載せているが、ここで村松七士を同志と称して旧知の間柄といい、中でも佐々耕庵、蒲生済助と親しかったとある。日ごろ酒を嗜んで客を好み、丸顔で体は豊か、性質は飾り気がなく純朴だがけじめ正しく潔白、口ごもりながら話して多くを語らなかったが、文章を作るのは素早く、有りのまま飾らず、その人のようであったという。そのため白賁子とも号した。白は潔白または飾り気がないさま、賁は飾るだが、憤るという意味もある。
 同12年には睡花仙史の筆名で『近世佳人傳』の初編が出版され、続いて同14年、同22年とで3編の計6巻が世に出た。第2編2巻は定価45銭で、発行人は蒲生重章、印刷・発売人は青山清吉・東生亀治郎・森田鉄五郎の3人であった。名妓、孝行・貞淑・友情・義侠・慈愛に優れた72名の娼妓の話である。
 初編巻之上に出てくる縞衣(しらきぬ)は吉原の名妓で、重章と関係のあった女性である。縞衣は人に優れて賢く、諸芸に精通し、磨きのかかった容色のうえ漢詩文を理解した。安政4(1857)年のある日、妓楼に登った重章は縞衣を見て一目ぼれしてしまった。当時赤貧を洗うような貧乏学生だった重章は、衣服を質に入れて15円(15両か)の金を作り、ふたたび会いに行った。縞衣はそんな重章を見て、あなたは必ず天下に名をなす人だから自愛するように諭したという。その後も「百計をつくし」て金を作り、しばしば縞衣に会いに行った。そのうち夫婦の約束をする仲となり、縞衣は自分に結婚できるような策があるから、3年間は会いにこないよういい、2人は別れている。そのあと重章は諸国を遊歴し、50余金を携えて江戸に戻るとすぐに縞衣を訪ねたが、彼女は病床にあった。のちにふたたび訪ねたら危篤となっており、重章は自ら薬を煎じて飲ませた。数日後に縞衣はわずか19歳で没したため、重章は慟哭して50余金すべてを使い浅草の寺に埋葬したという。縞衣の言ったことは、前出の「士の志、この世にある者、身通顯せずと雖も、いずくんぞ自ら輕んずるを得んや」という重章の文に照応する。
 なお重章の別号蠖屈潜夫の蠖屈は尺取虫が屈むように、人が他日を期して隠退しているさまをいう。
 また同じ本に出てくる両国同朋街の芸者小悦は、重章の同郷というから村松の出身かもしれない。
 他にも三編二巻下に出てくる阿徳と嶺松は五泉にあった大和楼の名妓で、阿徳は五泉の出身、嶺松は没落した村松士族某の娘であった。明治22年9月に重章が帰省した際、一日旧藩主奥田(旧姓堀)直弘と酒を酌み、酒席に2人を呼んだもので、旧村松藩士の重章にとって特別に感慨深いものがあったようである。
 『近世佳人傳』の特徴は、11人の塾生に序文や跋を書かせていることである。遊女伝や芸者伝を教材にして学生に原稿を書かせてしまう、というところに、重章の頭の柔らかさが表れている。
 同13年2月に、道徳の研磨と文学の講究を目的として会員2000余名をもって設立された斯文学会(会長有栖川宮熾仁。副会長谷干城。会館は神田錦町3丁目の旧太政官遺構を下賜された)の役員に、重野成斎、井上哲次郎、物集高見、巌谷修、南摩綱紀、三島中洲ら当代の碩学19名とともに推挙された。
 同26年の夏に村松に帰省した際、門人の中川重蔵が滞在中の周旋を尽くし、連れだって一日川内の名勝東光院に遊んで酒を酌みかわし、詩を作ったという。その時中川が作った詩は、「繞岸峰巒畫不如。溪聲松籟落暉餘。巖頭終日侍坡老。影落澄潭驚戲魚」であった。重章の詩のほうは小説家坂口安吾の父仁一郎が所有していたが、明治41年に隣家が類焼した際のどさくさに紛失し、仁一郎は「痛惜せざるを得むや」と悔しがった。
 木斎中川重蔵は北越の名儒と謳われた加藤北溟の孫で、加藤松斎の甥にあたる。重蔵は昌平黌に学び、維新後に太政官記録局に出仕したが、かたわら重章の有為塾でも学んだ。父の魯山中川快介も佐藤一斎に学んだ藩儒で、坂口仁一郎の著書『北越詩話』には父子3代にわたって採り上げられている。重蔵が有為塾に学んでいた時、重章は同郷のため魯山とは旧知の間柄だったといい、昔話をして、「一聲驚破書生夢。百萬兵車倒走天」の詩を示し、これは誰の句かと訊いたが重蔵は答えられなかった。重章はこれは君の父の雷句である、といって、手を打って褒めそやしたという。重章はたんに知識を切り売りするだけの教師でなく、生徒の興味を喚起し、励ますという独特な才能があったようである。
 この帰郷の途次、重章は加茂の町医者岡田椿齢宅を訪れ宿泊した。椿齢は重章の弟意庵の養子先である。そこに銀田石牛もやってきて3人で多いに談笑した(「銀田石牛伝」)。
 同34年3月7日(8日とも)に東京において漢籍教授中に脳溢血を起こし69歳で没して、谷中の天台宗天王寺墓地に葬られた。
 なお『明治人名辞典』では晩年の住所を麹町区飯田町3丁目29番地としている。現在の千代田区富士見1丁目43の日仏学院の地である。
 重章は漢詩に優れ、略歴と作品は『北越詩話』に漢詩を中心として11頁にわたって収載されている。
 同書で坂口仁一郎は重章の詩について、「綗亭の長は古體(韻をふむが平仄や句数に制限のない古い形式)に在り。平生、東坡(唐宋八大家のひとり蘇軾のこと)に私淑し。文を以て詩と爲し。通暢明快。意、筆先に在り。而して法度の爲めに拘束せられず。往往、逸足を恃みて奔し。未だ昌黎の人に笑はるゝを免れずと雖も。傳ふ可きもの亦た多し」と評している。昌黎は唐宋八大家のひとり韓愈のことだが、「昌黎の人」は正統派の詩人というくらいの意味だろう。
 このように重章の詩は作者のように奔放で、しばしば法則を逸脱し、正統派からみれば非難されるかもしれないが、坂口の評価は高かった。
 また前出の湯川台南は、重章の文について、「其文を作るに方(あた)ってや、必ずまず一大杯を傾けて元気を鼓舞し、筆を奮って一掃す。故にその文、或は練磨の巧を欠く。然れどもその英気勃勃として紙上に溢れ、人をして一読快哉を叫ばしむ」と似たようなことを書いている。
 『近世佳人傳』の中で狂狂老人こと小野湖山の評はさらに的確で、「褧亭君詩所長在通暢明快。而乏煉磨工夫。然若加他人措摘。則却覚減其精神。故不敢附鄙見也。恕恕」として、これを直してやろうなどというのはその精神を減じるもので、卑しくけちな了見である、といっている。重章も良い理解者を友人に持ったものである。
 嘉永2年に村松にいる時17歳で作った「元日書懷三首」と題する詩に、

 囗非祝鮀佞。顏非宋朝美。何以澆季世。富貴保終始。不如下董帷。文章照靑史。

 がある。筆者は詩文を解さないのでこの詩の良し悪しは分からないが、『北越詩話』に採り上げられているところを見ると、それなりの水準のものなのだろう。
 現在、漢文「自由園雅集記」が筑摩書房刊行の『明治文学全集62 明治漢詩文集』(1983年刊)に掲載されていて読むことができる。

 自由園雅集記
古人云。聽博雅君子一日之話。亦勝讀三年之書。況於與日淸兩國大賢鉅公。接膝而談論半日。秉燭繼之乎。況於觀園池之勝而饜美酒佳肴乎。明治二十二年五月十九日。中村君敬宇招飮淸國公使黎蒓齋。其隨員錢君琴齋。孫君君異。陳君衡山。劉君子貞。陶君杏南。及吾議官長岡君雲海。重野君成齋。金井君金洞于其自由園。余亦與焉。園在小石川江戸川北。樹老苔古。幽邃如深山。敬宇嘗鑿池。獲建武年閒斷碑。則知其園樹亦多爲數百年外物矣。時微雨屢至。樹翠如流。白杜鵑水晶花。點綴其閒。皚然映池水。淸潔幽媺可愛。池東有亭。曰松風亭。淸風襲人。飄然欲仙。衆先會此亭。茗話到晡。敬宇藏書數萬卷。黎君撿其目録。借古書數部。既而敬宇延衆賓於東北一大堂。牙籤玉軸。燦然滿架。至醫書佛典。亦皆備具。則敬宇之博洽可想。座上薔薇送香。盆栽幽蘭古松石菖蒲之屬。秀麗可愛。衆乃夾朱案竝坐。觥籌交錯。聨句吟誦驩甚。座有張君者。亦淸人。年最少。寓敬宇家。肄業文字。敬宇亦就學唐音。酒酣。誦伐木詩。余初聞唐音。傾聽不勝欽羨。張君詩先成。諸君和之。余亦賦五古一篇。有賓主十二人談笑一堂親之句。以謝敬宇。曰。嗚呼。余今日弘聞見。豈特讀三年之書而已哉。接兩國大賢十餘人淸範。抑亦幸矣。敬宇稱善。既而曰。此堂未有名號。請子爲擇佳名。余之誦伐木卒章曰。迨我暇矣。飮此醑矣。請名之曰迨暇之堂。可乎。君既爲敕任議官。非迨暇日。則不能燕朋友故舊也。雖日處乎自由之園。非迨暇日。亦不能逍遙。而適得其自由。則迨暇之號。豈非復與自由相稱者耶。昔者柳子厚贈詩曹侍御曰。春風無限瀟湘意。欲採蘋花不自由。今君則迨其暇。採蘋花於自由之園池。意懷所存。雖獻之天子。亦無不自由也。使子厚聞之。其健羨果何如哉。遂併書以爲記。

 なお同書には読み下し文もついている。
 中村敬宇は旗本の出身で諱を正直といい、洋学者・漢学者であった。昌平黌教授から東大教授となり、私塾同人社を創立した。S・スマイルスの『西国立志編』やJ・S・ミル『自由の理』の訳者として有名である。この詩に詠まれたころは元老院議官をしていたが、翌年には貴族院議員となった。敬宇は明治22年5月19日に清国公使および日清の賢人11名を、小石川の江戸川端大曲の旧内藤邸(現新宿区新小川町6)にある自宅の庭園自由園に招いた。前記の漢文は、この時、敬宇の依頼で重章が園内の大きな建物に迨暇堂(たいかどう)と命名したいきさつを記したものである。
 また重章の医術については、田村翠嵓が、「丁巳(安政4年)の春、余の母疾病あり。庸医の為め誤られ漸く昏困に至る。乃ち子闇に請う。之を療して立ろに愈ゆ。辛酉(文久元年)の夏、余の兄弟疫邪に染し悪症蜂起して衆皆以て不治となす。子闇又投薬して忽愈ゆ。余、これによって子闇の医技人に過ぐる遠きを知る。嗚呼、もし有力者あって之を登庸せば則ち徳本の功名また幾すべきや必せり」と過分の賛辞を贈っている。
 重章の交友関係としては、『近世偉人傳』の中で善諷子と並んで寸評を加えている詩人の小野湖山、※岡田后得、※阪谷朗廬、学士院会員の鷲津毅堂、斯文会を設立した元田南豊、田村翠嵓、大橋陶庵、文学博士川田甕江、史学会長重野成斎、小山春山、漢学者村山拙軒、同豊島洞斎、劉子貞、文学博士島田篁村、太田蘭隩などが親しかったようである。『近世偉人傳』は重章がまず本文を書き、それに寸評者がコメントを加えるという形式をとっている。
 ※岡田后得 未詳。堀祐元の一族というから、重章の実弟岡田意庵か。
 ※阪谷朗廬 備中出身の漢学者で諱は素。広島藩賓師、興譲館主を勤め、『朗廬全集』が出ている。新潟市の護国神社にある邨松七士之碑は阪谷の撰文による。
 また、重章は前出の片桐省介(義卿)とは特別深い親交があった。片桐は越後南蒲原郡二俣村(現三条市善久寺ほか)の庄屋で、江戸の柳橋で片桐の愛した芸者小梅をかたわらに重章と尊攘論を闘わせた仲である。慶応4年5月12日に新政府に抜擢されて江戸府権判事(東京府副知事に相当)に任命され、6月1日からは学校奉行を兼任して昌平校を委ねられた。さっそく片桐は梅吉を重章邸の近くに囲い、なにかと重章をここに招いて酒を酌み詩を吟じあった。ところが片桐は早くも10月には「同僚の妬みにより」辞職、翌明治2年11月には官物濫用などの罪で三宅島に流された。これは冤罪ともいわれ、重章は大橋陶庵、永山盛輝、烏丸光徳、岡千仞、男爵関義臣(5女は元松城会会長奥田教久氏の御母堂)、高橋竹之介らとともに片桐を支援した。明治6年2月に片桐が病死した際、重章は祭文と墓碑銘を撰している。このことは『新潟県史 別編3 人物編』所収「勤王者調書類」片桐省介之略歴に詳しく、祭文、墓碑銘も全文掲載されている。
 片桐が三宅島に流された際、これを慰めるため多くの友人とともに重章が贈った詩がある(『新潟県史 別編3 人物篇』所収)。

明治二年秋九月。送石崖子謫海外孤島。涙与筆倶下不能成字
晴天白日楼主人
観過知仁無人説。嘆息囹圄囚人傑。古来忠臣似君多。此理難明歯空嚙。陳平恣擲四万金。奇計密策説至今。草創固難常法論。善哉漢史与其心。欠々宵小吹毛索。平地怱起風波逆。 至尊九重寧知之。独傷忠臣海外謫。

 重章と前出坂口仁一郎の関係は、『北越詩話』によると、重章邸の玲瓏斎を坂口が訪ねたのが唯一の面識という。坂口は本間某の子供2人を有為塾に入門させようと依頼に行ったもので、先客が2人いたため用件のみ話して帰った。数年後に重章が帰省の際に新潟を通り、坂口の所在を尋ねたが、こんどは坂口が不在で会えなかったという。坂口は新潟新聞社長となり、新潟県会議長、衆議院議員を勤めた。
 なお、重章の書が村松町郷土資料館に収蔵されている。
 略歴は『村松町史 上卷』(村松町史編纂委員会編 村松町 昭和58年)、『中蒲原郡誌 中編』(中蒲原郡役所編)、『北越名流遺芳 第一集』(今泉鐸次郎著 巣枝堂目黒書房 大正3年)、『越佐人物誌 上巻』(牧田利平編 野島出版 1972年)、『漢学者伝記及著述集覧』(小川貫一編 関書院 1935年)、『明治漢詩文集』(岡本黄石著者代表 筑摩書房 1983年)、『漢学者伝記集成』(竹林貫一著 名著刊行会 昭和44年)、『近世漢学者伝記著作大事典』(関儀一郎・関義直編 関義直発行 昭和18年)、『日本漢文学大事典』(近藤春雄編 明治書院 昭和60年)、『和漢詩歌作家辞典』(森忠重著 みづほ出版 昭和47年)、『明治維新人名辞典』(吉川弘文堂 昭和57年)、『日本人名大事典 2』(平凡社 1983年)、『大日本人名辞書 第二巻』(大日本人名辞書刊行会編 講談社 1974年)、『国書人名辞典 第一巻』(市古貞次ほか編 岩波書店 1993年)、『日本人物情報大系 第54巻』(芳賀登ほか編 皓星社 2000年)、『医家人名辞書』(竹岡友三著・発行 1931年)、『明治先哲医話』(安西安周著 龍吟社 昭和17年)、『明治過去帳』(大植四郎編 東京美術 1971年)、『東京掃苔録』(藤浪和子著 東京名墓顕彰会 1940年)に掲載されている。
 著書に『夢見録』2巻(文久2年刊)、『褧亭文鈔』初編3巻(明治31年)、『褧亭詩鈔』2巻(明治35年)、『蒲門盍簪集』2巻、『近世偉人傳』12編24巻か、『近世佳人傳』3編6冊(明治12・14・22年刊)、『良寛詩集』などがあり、このうち『蒲門盍簪集』、『近世偉人傳』、『近世佳人傳』は一部が国立国会図書館に収蔵されている。
 『褧亭詩鈔』ははじめ3巻とする予定だったが、2巻目を執筆中に重章は没してしまった。のちに子の重裕が2巻本として世に出したという。
 なお、『近世偉人傳』のうち新潟県人17名の伝記と村松七士伝が『新潟県史 別編5 人物編』に転載されており、原文は漢文だが、県史のほうは読み下し文で読みやすくなっている。うち村松関係者分は七士伝のほか、五十嵐関八伝、堀伯謙伝、近藤貢伝、笹岡希黙伝、水野忠倚伝、滄浪伝、好田磻渓伝、輿丁助太郎伝として8名が紹介されている。
 このうち村松七士佐々耕庵と蒲生済助、堀伯謙(祐元)の3人は重章の従兄、水野忠倚と七士の下野勘平は親戚にあたる。また輿丁助太郎は重章の父解縛園の輿を担いでいた忠義者で、こうしてみると、重章は意外と身近なところから題材を得ていたことがわかる。
 また村松七士、五十嵐関八、堀伯謙、近藤貢の10人は過激な尊王攘夷家、笹岡希黙、滄浪、好田磻渓の3人は奇人、といったところをみると、重章の嗜好も自ずから読みとることができる。村松はまた変人奇人の多い所でもあった。
 輿丁助太郎伝では、助太郎が病気の解縛園のため、毎日片道8キロ余を厭わず霊泉を汲みに行ったことが書かれている。この霊泉は重章が村松の伴耕夫の依頼で亀徳泉と命名して石碑を建てたのと同じものであることがのちにわかり、感銘を深くしている。
 重章の書いたものに、村松藩医児島宗泉のための「兒島泉君墓銘」(『村松小史 第2歴史』所収)、千葉県香取郡松崎村に建てられた医師久志本常則の墓碑銘撰文(『神宮醫方史』昭和60年 久志本常孝)などがあるが、ほかにも未発掘のものが沢山あると思われる。
明治34年に重章が没したあとは長男の祐之助が有為塾を継いだ。祐之助は明治元年4月に生まれ、妻はけい子といって2男2女があり、大正元年発行の『現代人名辞典』では牛込区弁天町42住となっている。
 重章没後11年目の同45年に、蒲生寧が牛込仲町(現新宿区中町)19の205,32坪の土地に住み、ほかにも麹町区飯田町4丁目18の1(現千代田区飯田橋2丁目6‐6)に365,75坪、本郷区駒込動坂町(現文京区本駒込4丁目)227に482,00坪、牛込区岩戸町19(現新宿区岩戸町19)に424,51坪、大島町大字大島字寺領乙107~112(現在の江東区大島へん)に田1737,3坪など、合計7543,88坪を所有していた。寧は重章の妻で、祐之助と重裕は同一人物と想像されるが、委細は不明である。

(2008年3月村松郷土史研究会発行の『郷土村松65』に発表したものを流用しています)