村松藩の辻番所

                     村松郷土史研究会会員 渡  辺  好  明

 3万石の越後村松藩の辻番所は、神田末広町の交差点に設けられており、村松藩上屋敷の東北角にあった。現在の千代田区外神田3丁目16番の北東角の交差点の内部で3667坪あり、歩道に隣接する車道部分にあった。北を蔵前通り、東を下谷御成街道と呼ばれた中央通りが走っている。この御成街道は将軍が上野寛永寺に参詣にいく時の通り道であった。
 辻番の制度は3代将軍家光が、寛永6(1629)年3月に作ったという。江戸の市街地は6割くらいを武家屋敷が占めており、夜は人通りが少なく、まだ戦国の遺風もあって世の中が殺伐で、辻斬りや強盗などの事件がやたらと起こったので、その対策として作られている。はじめは幕府直営の公儀辻番が多く、寛文10(1670)年頃には87か所あったが、しだいに減って享保6(1721)年以降は10か所となった。
 村松藩では寛文11年4月20日に、2代藩主堀直吉が上野御成跡辻堅めを勤めている。これは3代将軍家光回忌のため、4代将軍家綱が寛永寺の大猷院廟に参詣した時のものである。この頃には村松藩でも辻番所を設けていたと思われ、番所前の辻を警備したものであろう
 江戸の町を警備するため、武家地には辻番、町方には自身番が置かれていた。辻番には大名が1家で担当する一手持辻番と、旗本や小大名が数家で共同して担当する組合辻番があり、村松藩のものは一手持辻番であった。辻番所の数は、江戸時代中期以降には市中で899か所あり、このうち一手持辻番が219か所、組合辻番が680か所、その他11か所となっている。また町方にはほかに自身番が設けられていた。
 辻番所の一般的な構造は間口が2間、奥行きが9尺で6畳の広さがあり、そこに間口2間、奥行き1間の下屋を設け、合わせて10畳大で、瓦葺のがっしりしたものだったらしい。ここに突棒、差股、袖搦の捕物道具を立て、松明、早縄、提灯を備えていた。一手持辻番では台のついた台提灯、組合辻番は高張提灯を出し、午後6時より翌朝6時まで明かりを灯していた。従って提灯を見れば一手持か組合辻番かすぐにわかるようになっていた。夜中も番所の戸は開けたままにしていた。
 番所の人数は石高割になっており、天和3(1683)年の規定では2万石以上の大名家では昼間4人、夜は6人が詰め、そのうち1人は不寝番という。夜は2時間毎に自分の受持区域を廻らなければならなかった。昼夜交替で詰めたため、藩では辻番に20人の人員をさかなければならなかった。
 辻番の番士は、一般に江戸初期には菖蒲革模様の袴をはき、六尺棒を小脇にかかえて立番をしたというが、のちには番士長が裃、他は羽織袴で室内に坐って控えているようになった。
 村松藩の辻番所は江戸市中でも有名な喧しい所で、そのため「堀の鬼辻」とか「下谷の鬼辻」などと呼ばれて、厳格な辻番所とされていた。そのため、大正時代の講談にも取り上げられていたという(『近世偉人伝』の著者で村松士族蒲生重章の甥岡田某が講談師になったというから、この人の出しものか)。
 昭和4年に発行された篠田鉱造著の『増補 幕末百話』(岩波文庫より)に、村松藩の辻番所のことが書かれている。

    昔の交番「堀の辻番」
   シタタカ者
 「辻番は生きた爺父の捨どころ」といいますが、決してそうばかりでもないが、寄合辻番はソ
 レでした。大概の方は御存知でしたろう。下谷御成道街道の堀の辻番――実に生きた爺父どこ
 ろでなく、腕こきの生きた関羽張飛とまではゆかないが、恐しい権幕の奴ばかりいた。堀丹波
 守、越後村松の領主で三万石、どういうものかあすこの辻番だけはああしたシタタカ者を置き
 ました。で武士でも何でもここじゃア兜を脱ぎ小さくなって通ったものです。弄かって逃げで
 もしようものなら、投棒で打倒されてしまいます。ただ各藩で卑怯だと誹ったのは辻番の裏か
 番の裏から屋敷へ開けて入れるようになってある。外のは一本立となっているのに、さりとは
 卑怯といったものです。

   二様の叱声
 けれども堀の辻番といったら士分でも恐しいとしたものだ。……聞けば三年同辻番に勤めれば
 士分に取立てられたものだそうです。(中略。以下一般論)ソレに二様の叱声をする。たとえ
 ば町人だと「通れ」とか「黙れ」とかいうし、武士だと「通らっしゃい」、「黙らっしゃい」
 という。コレでよく争論が起る。ツイ間違って辻番が武士へ対し「黙れ」といえば喰って懸り
 、騒ぎが持上るんです。

 他の辻番所は屋敷から張り出して設けられていたが、村松藩のみは屋敷内に入り組んで作られ、後ろは直ちに屋敷内に通じていて、非常時にはすぐに応援がかけつけられるようになっていたという。しかし、3年辻番を勤めれば士分に取り立てられるというのは誇張だろう。
 それでは他の辻番所はどうかというと、川柳に「辻番は生きた親爺の捨て所」とか、「辻番と思えば鰻焼いている」と詠まれるほどの所も多かったようである。前の句は老人を安く雇って数合わせをしていたもので、貞享元(1684)年には60歳以上、および20歳以下の者を番人にしてはならないという制限がわざわざ出されている。後の句は鰻を焼いて自分で食べるのではなく、鰻屋へおろす内職をしている者までいたというものである。一般に辻番所というのは、いざという時には逆に戸を閉めてしまう所と思われていたらしい。もっともこういうのは番人に雇い人を置いた組合辻番の場合で、家臣を番人に置いている一手持辻番のほうは厳格な所が多かったようである。
 明治16から17年にかけて測量された『参謀本部陸軍部測量局地図』(日本地図センター)に描かれた辻番所付近の建物はそのようになっており、かつ表門が辻番所に近いため、両所の連絡がとりやすくなっている。この地図から推測すると、村松藩の辻番所の建屋は13、5坪ほどあり、他藩の5坪ていどに比べるとはるかに大きい。しかし、明和4(1767)年と嘉永4(1851)年の江戸切絵図には、わかりやすく他の辻番所と同じように道路に張り出して描かれている。
 ここの辻番所は、将軍家光が上野寛永寺に廟参した時に辻固めがみごとだったので、特別の恩賞を賜っている。その後もここの番人には南蛮流目録以上の屈強の者が立ち番をし、江戸では模範的な辻番といわれている。
 南蛮流は制剛流の流れをくみ、柔術、居合、捕縄、捕縛、鼻捩を修練するいわゆる逮捕術であった。村松藩ではこれに杖、棒、小太刀を加えて南蛮一品(いっぽん)流と称し、代々林文五左衛門家が指南役を勤め、主として下級武士が習得した。棒手(棒術)には長さ6尺、5尺5寸、4尺2寸の3種類の棒を使用した(村松町郷土史研究会発行『郷土村松 第34号』所収佐藤久「村松藩武芸小伝」)。『幕末百話』に出てくる投棒は逃げる相手の股間に6尺棒を投げ入れ、足にからませて転倒したところを捕まえる高度な技であった。棒手は昭和16年ころまで村松に伝えられ、佐藤久(平成14年没)も指導を受けたというが、現在は断絶してしまった。
 辻番は受持場で起こった事件に対しては1番に管轄権を持っており、直ちに辻番所の役人が出て相応の処置をしなければならなかった。寛永6年6月の法度によると、人を斬った者があればどこまでも追いかけて留め置き、刀を取りあげて仔細を尋ね、その次第を町奉行所へ知らせなければならない。もし刀を渡さない場合には打ち殺してもかまわない。怪しい者を追う時には、先々の屋敷からも出会って留め置かなければならない。万一屋敷の前で人を斬ったのを知らずにおれば、番人の落ち度になる、というものであった。
 この法度も後にだんだん詳しくなってきて、「異扱要覧」(稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』青蛙房による)には捨て子の扱いから、行き倒れ、首くくり、暴れ者、拾い者、病人、酔っ払い、喧嘩や敵討があった場合などの処置が詳しく書かれている。これらの事件はすぐに幕府の目付に届けなければならず、暴れ者の場合も捕りすくめておいて、徒目付の検使がきて、指示がなければ縄をかけてはならなかった。
 また辻番所では通行する人の身分によって礼のしかたが違っていた。天明2(1782)年の法令では、御3家御3卿の通過には番士は下座台、徒士は砂利下座、足軽は土下座ときめられている。
 村松藩の辻番所は、この前を通る者は、駕丁といえども肌脱ぎ姿を許さなかったため、彼らは辻番所の近くまでくると衣襟を糺したという。荷車も1人で挽いて通り過ぎるのを許さないので、1人でくる者は通行人に頼んで車に手を掛けてもらわなければならなかった。また放歌・高笑して通るのを禁じ、高歌する者があれば必ず叱制したという。この荷車の件は、宝永4(1707)年8月に法令が出されており、必ず宰領をつけることになっていた。当時であっても荷車などによる交通事故や、渋滞がおきて問題になっていたわけである。
 文政12(1829)年の春にここの辻番所において狼藉人があり、捕り押えた番人の桜井熊蔵が褒美として、同8年9月の前例に従って本銀を下されている。
 天保8(1837)年12月21日の午後3時ころ、上野より将軍御成り御用の葵紋のついた長持3棹を担いだ持夫四人が、村松藩の辻番所前で休憩をして高声で歌った(わざとだろう)ため、辻番所の番人が制止したが聞き入れないため、持夫源兵衛(磯右衛門とも)を鼻捻棒で打って取り押さえ、幕臣の小人目付の申し出を聞かずに荷物を番所に留め置いた。そのため御用に差し障りがあったとして、幕府の目付狩野弥三郎と磯山佐之助が藩邸に出向いて取り調べを行った。26日には町奉行筒井伊賀守から辻番所の足軽木村奥八・金子金左衛門・渡辺平蔵・清水重右衛門が呼び出され、江戸留守居役の奥畑伝兵衛が4人を連れて出頭、伊賀守が直じきに取り調べを行った。その結果、辻番人4人はただちに本縄に縛られて入牢となった。29日には手鎖で出牢となり、村松藩の斎藤利藤次にお預けとなった。閏4月18日になって、脇坂中務大輔より辻番人の木村、金子、渡辺、清水の4名は江戸払いとなり、辻番足軽小頭の松井儀兵衛は急度叱り置く、留守居役の奥畑伝兵衛はお構いなしと公儀の判決がでている(『松城史談』所収「御成御用長持担候者辻番人制方不埒ニ付 御仕置一件」)。
 万延元(1860)年3月3日におきた桜田門外の変の直後に、辻番の警備を厳重にするよう、幕府から達しがあった。藩士中村庫蔵の『安政雑記』(『郷土村松 第55号』所収)によると、同日、村松藩の加納恵輔(留守居役だろう)が江戸城蘇鉄の間へ呼びだされ、徒目付斎藤直蔵から上野寛永寺への将軍の参詣、または老中の名代々参の節、当日朝の辻番所前通行の時刻を見計らい、家臣を出役させて、横小路は足軽に立番をさせ、往来の改めを厳重にして道を固めるようにとのことである。名代のある場合は前日に辻番所へ小人目付が連絡をするという。もっとも幕府から出役があって、徒方がきて門前に控え、道筋の所どころを固めるので、万事、徒方と相談して取り計らうように仰せ付けられ、加納は3月7日付の請書を斎藤に提出している。
 3月7日、老中の寛永寺代参のため、村松藩では門前の固めとして、辻番所へ辻番人のほか取次として田代安和太を配し、田代に若党2人、鑓持、挟箱持、草履取をつけている。ほかに北小路の往来固めとして下組の清水養介と足軽3人、南小路の往来固めとして下組の藤木岩平と足軽3人を立てた。田代は辻番所へ上がり(式台になっていたはず)、旗本がきたら通してやり、そのほかは姓名を聞いて行先を糺してから通行させたが、女性は自由に通している。
 当日の将軍の名代は老中安藤対馬守信睦と脇坂中務大輔安宅の2人であった。安藤公の供廻りは普段より人数を増やし、行列の両脇に別に伊賀袴をつけた者が片側17人くらいづつ並び、行列の前後には幕府の徒らしい者が15人くらいづつ並んで通過した。脇坂公のほうも普段より大勢供廻りを増やし、行列の少し先を野羽織や馬乗袴姿の剣術家らしい徒衆が10人余り通っていった。この名代行列の帰路には、往来を一般人は通行止めとし、行列通過後に解除している。
 藩医片桐道候の日誌(高地彰発行『靖亭先考遺稿 全』私家本)では、文久3(1863)年11月21日に狼藉人と立ち合った辻番の長崎安太が、左肩を長さ2寸余、深さ5寸余の傷を負い、3箇所を縫い合わせたという。この治療を徒士目付の佐藤次郎太夫が見届役、藤木岩平が立合役を勤めた。 
 翌元治元(1864)年3月13日にまたもや佐倉藩堀田正倫家の剣術指南番竹中鉄之助、柔術指南役町田次郎左衛門、平賀愛之助らによる狼藉事件が起きた。3名は花見帰りに酩酊して辻番所前で放歌したのを咎められ、怒って抜刀のうえ切りかかったため、番人4人が6尺棒でもって応戦し、捕り押さえて獄舎に入れた。その際長崎安太は1か月の重傷をおい、木村要八と田中与一郎も負傷した。ところが翌寅の刻(午前4時ころ)ころに3人は獄舎を破り、邸内に闖入して騒ぎたて、平賀は引き返して逃げ去ったが、竹中は中ノ口から書院の間に侵入して、玄関から出ようとするところを表門番の滝波忠蔵と出会い、格闘のすえ捕らえられた。町田は玄関から出ようとするところを見回役の山田弥八に捕らえられた。この時、滝波は無手で駆け寄って竹中に組みつき、額を切られながら縛りあげた。滝波は日ごろ酒を飲むと事ある時には主君の馬前で討ち死にをすると高言していたが、あまり相手にもされず、愚直な性格のため出世もしなかったという。
 翌14日朝にはさっそく幕府に届け出、同日深夜の12時ころに幕府の徒士目付、小人目付らが検使として差し向けられた。藩医片桐道候は検視の立会いを命じられて留守居役加納恵輔の所に出頭し、狼藉人両名ならびに村松藩の怪我人の検分を行った。それで狼藉人両名の傷の所見ならびに手当書、口上書2通、村松藩の怪我人2名の傷の所見ならびに手当書、口上書2通を提出し、翌15日の正午にようやく検分が終了した。
 なおこの時の町田の治療は、「膏薬……」、「敷薬……」、煎薬……」、竹中の治療は「膏薬……」となっている。
 16日に滝波と木村の2人は、幕府の目付役酒井録四郎に届け出て、同日に南町奉行所役宅で南町奉行の佐々木信濃守顕発に2人を引き渡した。片桐道候の日誌(前掲書)では、この時の滝波の傷は前項へ縦に長さ2寸5分で深さ7分、木村は眉間へ横に長さ7分、深さ3分の刀傷で、それぞれ2針づつ縫い合わせて膏薬を貼り、包帯を施し、ほかに葛根加蒼朮防風を投薬したという。この際徒士目付の佐藤次郎太夫、目付足軽の山田弥八が検視を勤めた。滝波、山田、木村、長崎、田中の5人はその後小役人に取り立てられたが、南蛮流目録の腕前であったという。
『東京名所図会 麹町区之部』(宮尾しげを監修 睦書房)では、この話を末広町に住む撃剣家竹中某が、上野の花見の帰りに酔いに乗じ、門人を連れて高歌をして辻番所の前を通り過ぎたところ、番士がこれを叱制したが聞かないため、棒を投げてたちまち地面に倒し、ついに捕縛して差し出したとある。これが巷間に伝えられていた話である。
 事件の翌日、犯人の竹中や町田は門弟が大勢いいたため、藩では道路に多くの人数をだして警戒にあたらせた。この日は市中から見物人が山のように押し寄せたという。
 稲垣史生著 『歴史考証事典 第四集』(新人物往来社)によると、この堀の鬼辻でいたずらをしたらさぞや愉快だろうと考えた者がいたという。湯島聖堂の学生は各藩の秀才を集めていたが、山下の私娼窟へ飲みにいった帰り、闇を伝って辻番所の台提灯に近づき、紐を結びつけて遠くへ立ち退き、一気に紐を引いて番人の目の前で台提灯をひっくり返し、歓声をあげながら逃げ帰ったという。当時の御成街道は道幅も狭く、大名屋敷が多いため夜は寂しい所であった。
 この辻番所の前の通りは、将軍が上野寛永寺に行く時に通るので、俗に御成街道と呼ばれていた。『中村庫蔵日記』(『郷土村松 第52号』)にも、元治元年4月20日に「上野え御成有之。五つ半前 通 御也。四つ時 還御」、5月8日に「上野え 御成有之」とあり、将軍の行列がしばしば通過する様子が記録されている。
 同年3月29日の項には「辻代り出立に付 岩田氏之頼みの品差遣候事。一昨日 辻代御在所表より着く」とあって、国表より番人の交替要員を呼び寄せている。
 ほかにも『中村庫蔵日記』によると、翌元治2年3月10日の夕刻、薩摩藩士3人がここの辻番所において刀を抜いて狼藉におよび、番人に捕り押さえられている。翌日未明に薩摩藩の留守居添役がきて談判となり、ついに内済とすることになって夕刻に引きとられたとある。
 また元村松藩士吉川武戌の書いた『雲煙録』(吉川和男・民江発行 私家本)によると、年は不明だが幕末のある夜、辻番所で番人吉岡助右衛門が、何者かに肩先を5寸ばかり切られる事件が起きた。犯人はすぐに逃走したが、現場に落ちていた鼻紙入れを調べると、長州藩士で落合平之丞という一刀流の達人であることが判明した。町奉行所にそのむね届け出たところ、長州藩では落合はすでに出奔して行方不明との届けがあったという。しかし、実際は長州藩がただちに国元へ逃がしたといわれている。
 辻番所には伐折羅神が祀られていて、これについては伝説が残されている。元禄のころ、村松藩士の野口兎毛と鳥羽逸平は一刀流堀内源左衛門の門弟であったが、赤穂義士の堀部安兵衛や大高源吾と同門で、親しく交際していたので、吉良邸への討ち入りのことなども話しあっていたという。討ち入りの際に野口と鳥羽は吉良邸の門前で見張りを勤め、そのあと泉岳寺まで見送った。別かれる際、2人は堀部から大事にしていた伐折羅神の札を贈られ、藩邸に戻った際、まず辻番所で衣服を改め、神符をここに奉納したという。そのため、この番所ではいかなる狼藉者があっても失敗しなかったという。それで吉岡の事件の際も、犯人が判明したのは伐折羅神のお陰とありがたがった。
 慶応4(1868)年2月7日の夜、九段坂上の3番町屯所(現在靖国神社がある所)を脱走した幕府の歩兵多数が上屋敷の門前を通行し、発砲するなどの乱暴をした。そのため、江戸留守居役の治外記暉運が指図して、屋敷内の松尾蔵右衛門をはじめ一同で門内を固め、辻番所にも詰めて警戒をした。
 3か月後の明治元年5月15日に起こった上野戦争は、ここ村松藩の辻番所の前で両軍が衝突して戦端が開かれた。この辺は彰義隊の警備区線だったため、前日に婦女子は全員立ち退くよう命令が出て、未明まで逃げ去るという騒動になった。壮丁のみ火事装束で家に潜み、畳をあげて積み重ねて弾丸よけとしたという。もっともこの時にはすでに藩士の多くは国元に引き払っていた。
 江戸詰めの場合は国元での暮らしより金がかかるため、給金の割り増しがあった。村松藩では宝暦5(1755)年の取り決めで、辻番足軽の役料は1人あたり2分(1両の半分)という。
 明治四4年7月14日の廃藩置県までは藩兵をもって東京市中の警備に当たらせていたというから、ここの辻番所はそれまで機能していたようである。10月からは東京に羅卒が備えられている。
 この辻番所の跡から、現在も30米西の上屋敷跡地内に末広町の交番があり、昔も今も重要な地点だったことがわかる。『東京名所図会』には、明治時代には末広町巡査派出所の裏に末広町乙号消防分遣所もあったという。
 
 (この論文は書きおろしです。2019年5月12日up)